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2015年10月03日06:49

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book『京都ぎらい』(井上章一)

井上章一著『京都ぎらい』(朝日新書)を読んだ。京都(烏丸)の本屋で見つけた「京都ぎらい」の本だ。洛外に生まれた著者は、大学生の頃に洛中の旧家生まれの著述家に「ええか君、嵯峨は京都とちがうんやで・・・」とさげすまれた。その経験以降、洛中の京都人の「中華意識」に対して差別意識を感じられてきた。この本は洛中と洛外についての差別の話、舞子さんとお坊さん(お寺さん)に代表される京都論、ユニークな京都の歴史の展開がある。井上章一さんは20年余前に講師でお呼びしたことがある。その時の講演タイトルがなんと「 天皇制と精神鑑定」だった。(その後、紀伊國屋書店から『狂気と王権』として出版された。)著者のユニークな視角を私は好きで、その後も著作を読んできた。この本の最後の方に出てくる「日の丸、君が代そして靖国」のところでも井上さんの独特の歴史論・文化論からくる考えがあり、共感した。その1箇所だけを引く。「私は国旗や国歌、日の丸や君が代に伝統を感じる人々のことを、いぶかしく思っている。あんなものは、東京が首都になってからうかびあがった、新出来の象徴でしかありえない。(中略)どうして、近頃の政権は、ああいうものを国民におしつけたがるのだろう。東京政府が、近代化の途上でひねりだした印ばかりをふりかざすのは、なぜなのか。明治政府ができる前の象徴は値打ちががない、そう言わんばかりのかまえを見せる現政権に、私は鼻白む。」この箇所では同様の視点で靖国神社についても論じられていて、興味深い。「明治の近代社会は、怨霊という古風なオカルティズムを、のりこえたのである。」「ただ、政権や国家の側についた戦死者の処遇は、以前よりずっとおごそかになっている。敵対者をぞんざいにあしらういっぽうで、味方の顕彰には、体制も力をいれだした。」「だが、私は靖国のあり方に、むしろ新しい近代の影を読む。保守的という点では、怨霊思想の残滓をとどめる自分のほうが、よほど後ろむきである。靖国に気持ちがよせられない自分こそ、真の保守派だと言いたい気分もないではない。」私は高校生〜大学1回生の途中まで民俗学がやりやいと思っていたので、こういう文章を読むと若い頃の自分を思い起こす。実におもしろい本だった。

<目次>
まえがき
第1章 洛外を生きる
第2章 お坊さんと舞子さん
第3章 仏教のある側面
第4章 歴史のなかから、見えること
第5章 平安京の副都心
あとがき 七は「ひち」である
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