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2019年09月28日01:32

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総論21「鳥取攻めの戦略」合戦考証81

○物語の中の「奇襲」を肯定する人たちにとって、大軍の動員には「なんの意味もない」ようなもの。だから「力の誇示」という解釈をするみたいですね。動員兵力が増えるほど「経済的な負担になる」という理解はない模様。この点を考慮すれば、戦国大名は「最低限の兵力しか出したくない」はずなんですけどね。よって「万単位の出陣規模」だったなら、それだけの動員をかける「意味」があるんです。ちなみに元亀元年の「姉川合戦」の場合、結果的に出陣したのは濃尾の織田軍と、三河の徳川軍だけでしたが、信長の背後には、山城、丹波、摂津、河内、大和、伊勢の「幕府勢力」がいたわけです。そして『言継卿記』に「将軍の出陣が延期になった」の記述です。信長の動員兵力数は、おそらく二万五千にもなる規模で、浅井と朝倉の出陣兵力一万三千の「二倍」になるかという数字です。

○ところがです。「将軍の出陣が延期になった」の文章から、将軍が「出陣しなかった」という「結果」の意味だけを読むみたい。「幕府軍の動員も予定されていた」という「過程」の意味は無視するみたい。だから「朝倉の総力出陣を信長が想定していた」という「理解」にならないんですね。ゆえに「小谷城を攻めたのは、城を攻め落として、浅井長政を討つのが目的だった」という解釈になっちゃうだけ。加えて「城乗り」しか考えません。それでは絶対に気づかないでしょうね?「信長が長期間の干し殺しをするまでもなく、五日もすれば朝倉軍が着陣するので、織田軍は朝倉軍と野戦になるから、浅井長政は籠城した」という点に。

○では、天正九年「秀吉の鳥取城攻め」に話を戻しましょうよ。六月に出陣した秀吉は、十月までの四ヵ月間、鳥取城に「干し殺し」をかけ続けました。城将の吉川経家らは、それに対抗して「籠城を続けた」わけですが、このときに「吉川を支援する者」は誰もいなかったんですか?「元亀の浅井長政」に朝倉義景がいたように、「天正の吉川経家」には広島の毛利輝元がいたんじゃないですか?

●『信長公記』巻十四
「八月十三日、因幡国とつとり表に至つて、芸州より毛利、吉川、小早川、後巻として罷出づべきの風説これあり。則、御先手に在国の衆、一左右次第、夜を日に継ぎ参陣致すべき用意、少も油断あるべからずの趣、仰出され候。(中略)今度、毛利家人数後巻として罷出づるに付いては、信長公御馬を出だされ、東国、西国の人数、膚を合せ、御一戦遂げられ、悉く討果し、本朝滞りなく御心一つに任せらるべきの旨上意にて、各其覚悟仕候」

○秀吉が「鳥取攻め」をしている最中の八月十三日、安土城にいた信長は「鳥取方面への出陣用意を命じた」という記述です。芸州広島から毛利、吉川、小早川が「後巻」として出てくるという「風説」があったからです。このときは「信長も出馬する予定」だったし、「御一戦を遂げられて、ことごとく討ち果たし、本朝をとどこおりなく御心ひとつに任せる」という「信長の上意が示された」と書いてあるんです。だから、出陣用意を命じられた者たちは「決戦の覚悟をした」というんですね。実際には毛利の出陣がなく、信長の「鳥取出陣」も用意だけで終わったのですが、ここには「どっちが目的なのか」がハッキリと書いてあるわけです。鳥取城を落として、吉川経家を討つのではなく、支援に出てきた毛利軍と全面決戦をすることのほうが「戦略目的」だったんです。よって「秀吉に与えられた役目」は、干し殺しをかけて「毛利の出陣を待つ」ことであって、城を落としちゃったら「意味ない」んですよ。だから「仕寄をしなかった」んでしょ?

○「弓矢の時代」の小谷攻めの場合、敵城に防備を固められたら「干し殺ししかできない」ので、朝倉の支援出陣を想定した「動員兵力」を出していても、朝倉軍を野戦で討つことが目的なのか、朝倉軍を蹴散らして「浅井を討つ」ことが目的なのか、その点は、戦略や戦術を分析しないと判別できません。けれど「鉄砲の時代」の鳥取攻めは、すでに「仕寄戦法」があるため、仕寄をかけないのなら支援軍のほうが「目的」となるはずだし、現に『信長公記』に「毛利を討つ」の記述があるんです。「書いてあっても理解できない」というのが、私には信じられない話。合戦研究をする歴史学者の言う「史料根拠」って、そもそも何?
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