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2019年04月17日00:36

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合戦考証40「疑惑の手柄」島原の乱

○忠利の「九二八番」と、忠興の返書「一五一八番」は誤読されています。細川家が「本丸一番乗り」と「大将首」という「二つの大手柄を立てた」ことに、江戸では「妬んで、悪口を言う者たちがいる」ので、忠興は「自慢話をして回るなよ」と「江戸の留守居たちに命じた」という解釈になっています。しかし実際の内容は、「忠興が忠利の手柄を信じない」と誤解した留守居が「御隠居様が信じてくださいません」と報告したがため、忠利が「すべて事実です」と繰り返して説明してきたのが「九二八番」であり、それを読んだ忠興が「留守居たちは誤解したと思ったよ。私の言う意味は違うのに」と返信した「一五一八番」なのです。

○誤読されてしまうのは、三つの原因によると思われますね。一つめは、封建時代に存在していた「不忠罪」と「不孝罪」を、現代人が軽く見すぎていること。当時は「死刑が適用される重罪」だったのに、今は存在しないので、意識してないのだと思われます。留守居たちは「主君の忠利が正しい。隠居の忠興が間違えている」と常に考えるし、それを報告しないのは「不忠になる」ので、とにかく報告するんですよ。しかし忠利は「私に間違いがある。父上様は正しい」と反対に考えるんです。よって「父上様が間違えたとすれば、私が誤解させるような書き方をしたからで、誤解を解いていただくために、ていねいに弁明しなければならない」んです。もちろん留守居については「よく報せてくれた。忠義である」と考えますし、父に弁明する際は「親の批判を直接には絶対に書かない」んです。

○二つめは、国語力です。「親の批判を書かない」のなら、どうしたって「婉曲表現」になるわけですよ。遠回しに言ってみたり、反対に言ってみたり、そういう「表現」に気づかなければ、文意を間違えるわけです。それと時制ですね。候文というのは、未来形と過去形がわかりにくいので、特に注意が必要です。忠利の「九二八番」で、最も難しい文章には、この二つが同時に入っていたのです。

●忠利九二八「3月23日」考証37に全文逐語訳
「三浦殿被参、本丸は二十八日午之刻に済候と被申候故、我等状と相違之様に心得候衆御座候と、主馬申越候、三浦殿被申候通、偽にて無御座候」

○前にも指摘しましたが、上記の原文「三浦殿被参」には「どこへ」の表記がないんです。しかし次に「被申候故」とあります。ここの「故」の言葉によって、前後の意味を直接につなぐと「三浦殿が申されたゆえに、私の報告と違う理解の者たちがいる、と主馬が申してきた」になります。つまり三浦が「江戸の細川屋敷に参られて、留守居の主馬たちに向けて申された」となりますし、加々山主馬が「三浦殿は、殿様とお考えが違っていました」と報告した意味になるじゃないですか。そして「誤読の解釈」だと、忠興は「忠利の手柄に大喜びだけど、よそには自慢して話すな、と命じている」ので、すなわち「相違之様に心得候衆」とは「三浦をはじめ、細川家を批判したがる者たち」の意味になるわけですよね?

○ところが、三浦志摩守正次は「戦地にいた上使衆」の一人です。この先の手紙に記述が出てきますけど、連絡役で来ていた上使ではなく、現地で指揮をとっていた上使のようです。正使の松平伊豆、副使の戸田左門の補佐で、途中から三浦志摩と井上筑後がいた模様。ならば三浦は「全部の事が終わった」三月二日以降に「現地を離れた」ことになって、十日で戻れたとしても、江戸帰着は「十二日ごろ」のはず。しかし加々山らが「忠興様の江戸到着」を報せた手紙は、十日過ぎには出しているんです。日程がギリギリなので、仮に三浦が帰ってきていると考えても、三浦は江戸へ戻った直後に、わざわざ「仲の悪い細川家」を訪ねてきて、「お宅では二十七日に本丸一番乗りだとか言っているそうですが、本丸の陥落は二十八日の昼ですからね」と「嫌味を話していった」ことになりますよ?

○以上のことから「三浦殿被参」とは、忠利が熊本へ帰国する前、まだ現地にいたとき「私の陣所へ参られた」の「過去」の話と見るべきですね。ここで三浦の名前を出したのは、松平伊豆ほかの上使衆の中で、忠利が直接に話をして「二十八日の昼には終わった」の言質を得ている人物だからで、ゆえに「三浦殿の申されたとおりで、偽りではないのです」と言っている意味。よって「相違之様に心得候衆」とは「忠興が信じてくれない」の意味を、あえて「衆」とした婉曲表現。

○そして、誤読する原因の三つめが「合戦の理解」の誤りです。忠利は「本丸一番乗りと大将首は、細川家の手柄だ」と思っているのだし、留守居たちも「殿様の御手柄だ」と思っているわけです。これを論理的に考えてみましょう。「一番乗りをしたから、手柄である」と言ったとき、対偶は「手柄でないのは、一番乗りをしていないからだ」となるわけで、要するに忠利も留守居たちも「忠興が手柄を認めないのは、一番乗りを信じてないからだ」となるんですよ。この点については「誤読の解釈」も似たようなもので、「細川家を妬む者は、忠利の一番乗りを認めない」の解釈です。けれど「忠興の理解」は違うんです。「せっかく一番乗りをしても、これでは手柄と認められないかも」の意味なんです。すなわち「一番乗りをしたから、手柄である」の前提を否定しているんです、忠興は。

○私の理解はおかしいですか?「一番乗り」は手柄に決まっていますか?

●忠興一五一七「4月5日」考証36に全文逐語訳

○同じ四月五日付の手紙。忠興の「一五一七番」を読めば、「上様がお怒り」のようなんですよね。史料を読んだ現代人が「これは手柄で間違いない」と、いくら「認定した」ところで、現実の中で「認定する」のは「将軍の家光」じゃないですか。忠利が「これは手柄だ」と思っても、留守居が「手柄に決まっている」と言い張っても、忠興は「上様がお認めにならない可能性」を判断したということ。
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