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2018年10月22日00:49

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本史関ヶ原133「決戦の真相」

○すべての条件が確定しました。まだ「仮定の要素」も残っていますが、最終決戦の廟算を可能とするだけの「基本データ」は調いました。根拠史料は二通です。

●一〇九号9月15日「差出」徳川家康「宛」伊達政宗
●細川家史料9月22日「差出」細川忠興「宛」細川忠利

○関ヶ原合戦の「状況」について、多少とも触れた手紙史料のうち、原本確認されている本物の史料は「細川忠興の手紙」の一通だけです。本物かどうかわからない「記録の中に転記された史料」ですが、一〇九号「家康の勝利報告」の一通は、本物と見てよさそうです。私が用意したのは『日本戦史関原役』と『徳川家康文書の研究』と、そして『細川家史料』の三つでして、この中では「たったの二通だけ」です。しかし状況は共通しています。「忠興の手紙」では「一戦に及ばれ、悉く切り崩し、数千人切り捨てなされ候」という記述。一〇九号は「一戦に及び、備前中納言、島津、小西、石治部人衆、悉く討っ捕り候」です。ちなみに「悉く討っ捕り」とは「皆殺しにした」の意味ではありません。この点、忠興の記述が正確で、「悉く切り崩し」て「数千人切り捨て」たという書き方です。

○通常「崩す」とは、敵軍が「軍の体裁をなさないほど、隊が崩れて、全面敗走した」ことを言います。そこに「切り崩し」とあるからには、こちらの攻撃によって「敵が崩れた」ことを意味しますので、ついつい「敵を正面から攻撃して、白兵乱戦をした」ように思うわけなんですね。けれども「切り崩し」の「切り」の言葉は「敵兵を斬り殺した」の意味ではないんですよ。「敵兵を斬り殺した」のは「切り捨て」のほうで言っています。あくまで「こちらの攻撃により、敵が崩れたから、敗走したところを追撃して、多くの兵を切り殺した」と言っている意味。この場合の「攻撃」とは、必ずしも「こちらが敵陣に向けて進軍した」意味でもありません。「敵のほうが追撃してきたところを迎撃した」場合でも、こちらの攻撃的意図で「切り崩した」ことになります。よって問題なのは「一戦に及ばれ」の表記ですね。「被及」を敬語で読むなら、こちらから仕掛けた意味。受け身で読むなら、相手から仕掛けてきた意味。すると続きに「切捨被為」の表記です。これは敬語でしか読めないので、同じく敬語の意味で「こちらから一戦に及んだ」と読むべきでしょうね。その点一〇九号では「及一戦」の表記です。

○ただし敵軍は、天満山とかの「高台に布陣している」んですよ。ここに攻め込んだ意味ならば、普通は「落居せしめ」と書くでしょうね。または「砦構え候ところを乗崩」とかってね。しかも敵軍は「こちらがワーッと攻め寄せていけば、相手も陣地を出てきて、ワーッと攻めてきてくれる」はずもないってことを、何度も書いてきました。だから関東側は、何かしらの仕掛けによって「敵が陣地から出てくるように仕向けた」ってこと。つまり「追撃を誘った」わけです。そうして「敵が追撃してきた」ところを、逆に「切り崩した」ということです。しかしですよ?「関東側が迎撃態勢をとっている」のが丸見えの状況で、わざわざ敵陣に突っ込んでいくほど、石田たちは「おバカの軍団」だったのでしょうかね。さらに言えば、大坂側の追撃を、関東側が迎撃によって「自ら切り崩した」のであれば、この状況の中に「秀秋の寝返り行動」など、意味ないと思いませんか?

○合戦の条件。ここまでに解析してきたデータ。これらを背景にして「史料の記述内容を理解する」と、合戦を仕掛けたのは関東側であるし、攻撃的手段を用いて「敵を切り崩した」のも関東側となりますが、敵陣に「攻め込んだ」のでもなければ、追撃に誘い出して「迎撃した」のでもないことになります。やはり「敵を北へ誘い出して、南の秀秋に背後から討たせた」ことになるようです。では、最初から「秀秋と話がついていた」のでしょうか。つまり、十四日に誓詞を交わしていた段階で、秀秋が「知らん顔して敵側に布陣する」こと、けれども「敵を誘い出せば、背後から討つ」ことを、約束してあったのでしょうか。一般の将兵たちは「それを知らされてない」としても、先鋒軍を率いる井伊、本多、福島らの指揮官たちは「理解していた」ので、敵に仕掛ける選択をしたのでしょうか?

○考えてみてください?「敵側に布陣した秀秋」が、約束どおりに「背後を突いてくれる」ことを、本当に「信じられる」のでしょうか?「もしも秀秋が約束を破った場合」は、北へ下がって「追撃を誘った」先鋒軍は、もはや逃げ場もない状況に追い込まれてしまいます。それを逆に言えば、そもそも秀秋が「関東側を叩くための計略を仕掛けていた」可能性もあるでしょう?「秀秋の嘘」にだまされて、先鋒軍は壊滅しかねないってこと。しかも「定説化している解釈」では、誓詞を受け取ってさえ秀秋は「寝返りを迷っていた」じゃないですか。家康のほうでも「吉川に出した誓詞」を、簡単に「ないものにしちゃった」という解釈です。それでどうして「秀秋が確かに味方してくれる」と信じられるんでしょうね。

○ところがです。忠興の手紙には「金吾様御味方被下」とかって記述がないんです。「家康の勝利報告」にも「金吾御忠節」などの記述がないんです。「事前の想定どおり」になったのなら、そのことが少しも書かれてないのは不思議です。しかも忠興の手紙は「関ヶ原表にて被及一戦」となっていて、以前にも指摘しましたが「忠興自身は関ヶ原へ出ていない可能性」があるんです。勝利の報せを受けて、忠興は一気に進軍し、丹波まで行き、そこで「亀山城の包囲戦」を終わらせ、やっと「二十二日」になって書いた手紙の可能性。ゆえに忠興は関ヶ原決戦を「見てもいない」し、仲間から「詳細を聞いてもいない」ことになるかもしれません。だとすれば、秀秋に「背後を突いてもらう前提」の仕掛けは、先鋒軍による「現場の判断」だった可能性が出てくるんです。さあ、ここです。事前に約束があってさえも、絶対に秀秋が寝返ると「信じられるものではない」っていうのなら、突然の想定外で「敵陣に交ざっている秀秋」を目にしたときに、「だいじょうぶだ。秀秋は味方なのだ」と、本気で「信じられる」ものですかね?

○彼らは「それを信じた」んですよ。そして「そんなの信じられるわけがない」と思う人たちが、後世になって「定着している展開」を作り出したんです。「裏切らないことを信じられない」のであれば、裏切らなかったのは「都合よく裏切らなかっただけ」のことでしかないんです。だから「西軍では裏切り者だらけ」なのに、なぜか「東軍では都合よく誰も裏切らない」という展開になるんです。
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