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2018年10月06日01:10

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本史関ヶ原129「赤坂着陣は十五日」

○関ヶ原合戦の「定着している展開」は、「関ヶ原で西軍と東軍が戦闘衝突し、西軍側の小早川秀秋が東軍側へ寝返ったので、東軍が勝利した」というもの。しかし「事の順序」は逆だったのです。秀秋が東軍(関東側)へ寝返ったのは、決戦の前日「十四日」のこと。ゆえに「その時点で関東側の勝利が確定した」からこそ「関ヶ原へ進出した」というのが実際です。『孫子』の言う「勝つは知るべし、しかしてなすべからず」とは、つまりは「こういうこと」でして、すでに勝ちを「知った」関東側は、そのチャンスを逃さずに、勝利の結果を実現させるべく「動いた」のです。「勝つか敗けるかわからない」段階で「とにかく戦ってみる」というのでは、まさに「勝つをなそうとする」ことでしかないわけで、そういう「素人理解」を「やってはならない」と戒めているのが『孫子』なんです。

○『孫子』の有名な言葉「彼を知り、己れを知れば、百戦して危うからず」というのは、単なる「情報戦」の意味ではありません。「敵の行動」の意味を理解すること。後巻きに出てきた吉川たちが「なぜか稲荷山をあけている」という行動の意味。すなわち「いつでも下がる用意がある」という意思表示。それでいて、平然と「後巻き布陣を続ける」という行動の意味。もちろん関東側は、重要な情報も得ているはずですね?「岐阜戦後に帰参した者」たちが「岐阜で籠城戦を選択した理由」について語っているはず。すなわち「徳川軍は出てこられないと思っていたから、大坂側は攻勢に出る選択をした」という点です。しかも黒田長政が、吉川と秀秋に「家康公は来ます」と手紙を送っているわけです。それでもなお、後巻きに出てきた吉川たち。これらの点を考慮すれば、吉川たちが「本当に徳川軍が出てくるのかどうか、見極めるためにギリギリの判断をしている」ことぐらい、関東側も判断が可能というもの。すると家康は、どうするでしょうか?

○家康が、そして徳川軍が「姿を見せた」なら、吉川は「撤収するだろう」ということじゃないですか。つまり「十三日に岐阜城へ移動した」家康の存在を、南宮山にいる吉川は「知りえない」んですよ。なのに家康が「十四日に赤坂へ着陣した」ら、吉川に「徳川軍が来たことを教えてやる」ことになって、すると吉川は「十五日の早暁に退却してしまう」ってことです。じゃあ実際のところ「吉川は退却したのか」と言えば、南宮山の裏で起こっている事情も知らないままで、十五日の決戦時にも「動かないままだった」ということになるわけですよね?

●一〇九号9月15日「差出」徳川家康「宛」伊達政宗

○家康の「関ヶ原勝利報告」一〇九号。これには「直に佐和山迄今日着馬候」の文章。家康自身も「今日中に佐和山へ到着している」と言っているので、後方の岐阜城に残っていたとは思えないんです。しかし前回「家康は出陣したのか?」という疑問を書いたわけですね。ここから考えるに、家康は「関ヶ原へは出ていないが、赤坂までは来たのではないか」という推測。前線の指揮権を持つ「井伊直政と本多忠勝」が大垣戦から離れたので、包囲戦の指揮は家康が代行したのではないでしょうか。しかも「伝承」の中に「家康の赤坂着陣」が語られているんです。本来の包囲戦であれば「赤坂にだけ布陣」ってことはないはずで、しかし赤坂は「確かに布陣するべき位置」なんですよ。この「奇妙な一致」を踏まえると「ほかに布陣した場所はカットされてしまったけど、赤坂だけは伝承に残った」ことになって、それは「家康が着陣した場所だからだ」と考えるしかないように思うんです。ただし、その日付は「十五日」であって、十四日ではないはず。

○蛇足ですが、創作によって「日付が変わる」例もありますよ?「桶狭間合戦」は、太田牛一の書いた記録『信長公記』だと、信長の「清洲城出陣」が五月十九日の朝です。けれど小瀬甫庵の書いた物語『甫庵信長記』だと、信長は十八日中に「熱田神宮まで来ていた」ことになっています。関ヶ原合戦の手紙史料において、確定しうる「変えられない設定」は、十三日に岐阜へ移動、十四日に小早川家へ誓詞、十五日に山中で戦闘衝突ですからね。「十四日に赤坂着陣」は確定してないんです。もっとも「吉川を引かせたい」のであれば「自分の到着を教えてやる」べきですけどもね。逆に「吉川はここに釘付けにしておきたい」と思いませんか?「わざわざ吉川を退却させて、敵の兵力を増やしてあげる」よりも、吉川と小早川は「石田たちから分離しておく」ほうがいいでしょう?

○「決戦の当日に吉川が南宮山で動かなかった」を事実としても、どうして「動かなかったのか?」の理由を「十四日に吉川にも誓詞を送って、裏切りの約束を取り付けていたから」とするのが「定説化している解釈」ですが、なぜ「吉川に裏切りを求めたか?」という点は考えてないでしょう?「毛利家を守るには、家康と戦うべきではないと思ったから」ってふうに「吉川がどうして裏切りに乗ったか」を言うのみで、吉川が動かないと「なぜ家康に都合がいいのか」を言わないでしょう?「敵の兵力を少しでも減らすべきだから」というふうには考えてないからです。戦力の投入しか「考え方が存在しない」と、たとえば「大津攻めの部隊が決戦に間に合わなかった」とか「秀忠軍が決戦に間に合わなかった」とかって「結果論」を言うばかり。戦場にいる敵軍を「分断してやれば、敵の兵力が減る」という発想が出てこないんです。けれど『孫子』は「我は集まりて一となし、敵を分かちて十となす」です。その意味では「吉川が動かなかったのは、裏切り工作に応じたから」説であっても、戦術上は同じことじゃないですか。そしたら百歩譲って「裏切りに応じた」説を採用した場合です。家康が「赤坂に出てから、誓詞を送った」のと「誓詞で確認してから、赤坂に出た」のとで、何が違います?「先に赤坂へ出た」でなければならない理由があります?「十四日に赤坂着陣」と書いた「後世の誰かさんの記述」を鵜呑みにしているだけなのでは?

○「攻めない合戦」の理解なら、裏切りの確認は小早川家だけ。これで秀秋は動きません。吉川たちは、事前に徳川軍が姿を見せない限り、どうせ動きません。ゆえに家康が岐阜城を出陣したのは、決戦当日の十五日と見るべきですね。これで石田たち「中仙道方面軍」は、毛利系の「東海道方面軍」と分断されてしまうんです。あとは家康が、本当に「赤坂止まりだった」のか、その点の確認です。
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