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2018年08月31日00:19

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本史関ヶ原120「三つの背信」

○「本物の手紙史料だけで読み解く関ヶ原合戦」で解析してきた確定データに、一致する展開が廟算によって見つかりました。さらにキャラ設定を加えて、石田三成、吉川広家、小早川秀秋、それぞれの行動も一貫性が見えてきたようです。吉川が後巻きに出るにあたり、後詰めを任された石田ですが、その任務には「平地で戦闘」というリスクがあったわけです。もっとも「攻める合戦」で考えている限り、それ以外の戦い方は「存在しない」ようなものですから、ここに「リスクがある」という考え方には決して至らないでしょう。つまり「攻める合戦」とは「リスクヘッジも考えない戦い方だ」ってことなんですよ。

○もちろん「石田三成という武将」は「優秀」なのですから、リスクのあるような「ヘタな戦い方をしない」んです。リスクがあると言っても、後巻きが南宮山の向こうへ出ているあいだだけのこと。大垣戦を終わらせるためには、後巻きが出ていく必要がありますのでね。いくらリスクがあろうとも、やらざるをえないことは、しょうがないんです。だから吉川は後巻きに出るのだし、その間「石田は後詰めを引き受ける」のだし、けれど「リスクのある状態を長く続けるつもりはない」んですよ。一旦は「出る」けども、すぐに退却して、次に備えるのが利口な選択。万全の態勢で敵を迎え討ち、総追撃に持ち込むのが賢明な判断。石田は「そう考える」わけなんです。なのに吉川が、すぐに退却してこない…。

○ここで一つ「疑問」に気づきませんか?「後巻きに出ても、すぐに退却して、大垣城に降参退去をさせるなら、そもそもなぜ大垣城に籠城抵抗させたのか?」という疑問点。石田や宇喜多が大垣を離れて西に引いたとき、大垣城に「番手」も残さず、城を放棄して、全軍で引き下がってもよかったはずでしょ?

○この問題は、ぜひとも覚えておいてほしいですね。ここが「石田の戦術想定」につながるからです。ともあれ、結果的には「吉川の戦術想定」と見られる行動に出た大坂側です。ところが「石田の理解」と相違して、後巻きから戻らない吉川たち。すると石田は「リスクのある状態に置かれてしまう」ってわけ。ここで石田のとった行動が「勝手に陣を下げる」です。その報告を受けた秀秋が、急いで前線に出てきます。秀秋は当然「なんでそんなことを勝手にするんだ」と石田に抗議するでしょう。けれども石田にしてみれば、「約束をたがえて、戻ってこない」のは「吉川のほう」なんですよ。「勝手なことをしている」のは吉川なんです。そのせいで「こっちがリスクにさらされる」など、石田は認めないんです。

○とはいえ、吉川が「すぐに退却すると約束した」はずもないでしょう。前回にも書きましたが、これは「石田の主観的理解」で、リスクのある戦い方を「したくない」石田が「どうせすぐに退却するさ」という思い込みのうえで、「それなら」と後詰めを引き受けた「つもり」なんです。そこをちゃんと話し合ってないんだと思われます。石田に「平地戦闘」の自信があるなら、後詰めを続けているはずだし、自信がないことを「素直に伝えている」のなら、吉川だって「ギリギリまでの駆け引きで後巻きを続ける」という判断はしなかったと思われますからね。古い戦術で「リスクがある」のは、吉川も承知しているはずだからです。けれども、大垣城が巻かれている以上は「後巻きに出なければならない」し、兵力が足りない以上は「稲荷山をあける」しかないんですよ。あとは、そこからの駆け引きです。稲荷山をあけたからって、豊臣軍団は「取りにくる」でしょうか?

○ここです。石田が「リスクを避けたがっている」背景には、豊臣軍団が「あけたら取りにくる」と想定している可能性。吉川は「あけても取りにこない」と想定している可能性。敵の行動予測が、二人のあいだで「違う」みたいですよ?

○この「想定の差」は、どこからくるんでしょうか。たとえば、石田は「同じ豊臣家中」なので、福島をはじめ、彼らの行動パターンは「読めている」からであって、その点「吉川は家が違う」ため、行動を「読み切っていない」から?

○こう考えればいいんです。石田がリスクを避けて、陣を下げました。そして秀秋が「前線に出てこなかった」と仮定します。すると「徳川家は秀秋に誓詞を送らなかった」ことになりますので、関東側は「関ヶ原へ出てこなかった」となるんじゃないですかね?「結果的」に関東側が出てきて「石田たちと戦闘した」のは、秀秋が「出てきたこと」によるもので、秀秋が来ないなら、石田が陣を下げても「空振りに終わった」ことになるんじゃないでしょうか。つまり「石田の行動」は、敵の行動を読んだ上での選択ではなく、結局のところ「平地戦闘に自信がない」という自己のマイナス要因に依っている可能性。しかし石田本人の意識の中では「リスクのあることをするほうがおかしいのだ」という思い込み。

●一〇五号9月13日「差出」徳川家康「宛」土方雄久

○久しぶりに史料確認です。清洲から岐阜へ移った家康が、土方雄久へ書いたもの。小松城で籠城している丹羽長重が、家康に講和を願ってきたので、小松城を巻いている土方に「其方被致才覚御入魂候て、早々越前表御手合之事肝要候」と伝えたもの。この手紙には「青木紀伊守も内々申越」とあるので、文中の「越前表」とは、大谷吉継の敦賀城のことだと考えられるわけです。「小松のことは終わらせて、それよりも敵は敦賀だよ」と言っているのが十三日。そして「吉川の廟算」では「もしも関東側に余力があるならば、大垣戦を継続したまま、越前に戦線拡大するはずだ」と書きましたよね?「家康がそれを書いている」わけですよ。敵を「読んでいる」のは吉川のほうってもので、廟算と史料が一致ですね?

○というわけで、吉川は背信行為をしていません。しかし「石田の主観」の中では「背信されたのは自分のほう」なんですよ。ゆえに平気で背信するんです。すると秀秋が「任務を放棄する」という背信行為で「出てくる」んです。そして秀秋の背信が、結果的に関東側へつながって、最終的な寝返りになるってわけですね。大坂側の行動は、決戦の前から、それぞれがバラバラになっていたようです。
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