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2018年08月07日01:23

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本史関ヶ原114「謎は解けた!」

○「本物の手紙史料だけで読み解く関ヶ原合戦」でしたけど、史料解析データだけでは「合戦の展開」が判明しませんでした。わかったのは「あらすじ」程度の流れだけ。ゆえに創作の技法を使うことで、解析データと合致する「展開」を探してきたわけです。その結果、定説で語る関ヶ原合戦とは「似て非なる」ってくらいに展開が変わってきました。それでも私は個人的に満足しています。

○「東軍が大垣に進出して、西軍が南宮山に布陣すると、東軍は関ヶ原へ出てしまう」という展開。これが成立するためには「西軍が南宮山の北で中仙道を塞いでいなかった」というポイントが重要です。なぜ東軍は「関ヶ原へ出たのか?」を問う以前に、なぜ西軍は「中仙道をあけていたのか?」の疑問点。その答えを探すべく、関東側の先鋒軍たる福島正則と、大坂側で後巻きに出た吉川広家と、双方向の廟算をした結果、後巻きの態勢が見えました。やはり吉川は「意図的に中仙道をあけていた」ようです。だからと言って「中仙道が通れるように放置していた」わけではありません。松尾山の東の尾根「関ヶ原に面した北側」に、石田と小西の後詰め。これによって、関東側が「中仙道を確保するため、稲荷山を取りにきた」場合でも、または「南宮山の裏の道から関ヶ原へ出ようとした」場合でも、どちらでも対応が可能となるわけです。稲荷山と、松尾山の東と、二ヵ所に布陣するよりも「兵力が少なくて済む」うえに、関東側は「万が一、敵の大軍が裏に控えていたら?」と思えばこそ、安易な攻勢に出られなくなるでしょう。

○ところがです。「結果的」に関東側は「中仙道を進んで関ヶ原へ出た」わけですね。しかも十五日の決戦当日、関ヶ原よりもさらに西の「山中付近」で戦闘衝突になった模様。すなわち石田と小西も、宇喜多と一緒に「山中のあたり」に布陣していたと見られるわけです。そのうえ徳川家では、「関ヶ原へ出る」にあたって「前線にいると見られる小早川軍」へ、十四日に誓詞を送って「敵と見なしませんから、攻撃してこないでください」と伝えていたわけです。よって松尾山の東で後詰めを担当していたのは「小早川秀秋だった」ことになりそうです。では、最初から後詰めは秀秋だったのでしょうか。それともあとから前線に出てきて、後詰めを交代したのでしょうか。その場合、石田が呼び寄せたのか、秀秋のほうから出てきたのか。これらを考えたとき、全部の解析データと矛盾なくつながる展開が「一つだけ見つかった」わけですね。ゆえにきっと、それが答えです。

○まずは「石田が呼んだ」場合です。理由はともかく、石田は「陣を下げる」必要を考えたことになります。代わりに秀秋を呼んで、後詰めの任務を交代したわけです。その後、なぜか関東側が「関ヶ原へ出てきた」わけですが、その理由も無視するとして、要は「関東側が関ヶ原へ出た」場合、対応に出て戦うのは「後詰めの秀秋」なのであって、「山中に下がった石田たち」ではないってこと。そのうえ秀秋の陣所は「松尾山」ではなく「松尾山の東の尾根」なんですよ。つまり「結果として、山中で石田たちが戦った」ということは、関東側が関ヶ原へ出てきたときに、後詰めの秀秋が「応戦に出て、食い止める」ことをせず、動かないまま「関東側を素通りさせてしまった」ことになるじゃないですか。さらに廟算値で考えれば、最初に関東側は「進路確保のために稲荷山を押さえる」はずでして、けれど秀秋が対応しないのなら、関東側は「稲荷山を取ってしまう」ことになりますので、この時点で石田は「異状」に気づくべき。まして「稲荷山も取らずに、いきなり出てきた」のなら、それこそ秀秋の離反は見え見えってもの。

○次に「最初から秀秋が後詰めだった」場合ですが、展開は上記と同じなんですね。「秀秋のほうから前線に出てきて、石田に交代を求めた」場合でも、やはり展開は同じなんです。つまり秀秋が、元からいたにしろ、自分から出てきたにしろ、石田に呼ばれたにしろ、「徳川家の誓詞」十四日付を受け取って「大坂側を裏切る決意」をしていた以上、秀秋の「その思惑」を石田に気づかれないためには、決戦の当日に「松尾山の東の尾根」にいてはいけないってことなんです。関東側を素通りさせたら、意図がバレてしまうじゃないですか。よって「石田と一緒に山中に布陣しているべき」だってこと。同じ「松尾山」でも「山頂のある西側」にいるべき。ということは、決戦の当日「南宮山の裏には後詰めがいなかった」ことになってしまうわけ。吉川たちは、まだ最前線にいるってのに…。

○出陣したときは一緒のはずなんです。中仙道を進みながら、天満山に宇喜多軍が残り、松尾山の東の尾根に石田と小西の軍が残り、南宮山の前へ吉川たち毛利軍と長束が出てきたはず。だから「後詰めはいた」はずです。ところが後方部隊の者たちは、いつの間にか戦線を下げちゃって「山中の布陣」に変わっているわけ。吉川ともあろう武将が「退路の確保もせずに南宮山へ出ていたのは、おかしい」と指摘してきましたが、「おかしい」ことをしたのは「吉川ではなかった」んです。定説では「南宮山で動かなかった吉川が裏切り者」ですけど、逆に吉川のほうこそが「後巻きの最中に、味方に見捨てられた」ようなものなんです。だから「退路も確保していない愚将」に見えてしまったというわけ。

○じゃあ「後巻きを見捨てるような真似をした」のは、石田と秀秋のどちらでしょう?「石田が戦線を下げて、秀秋も山中に呼び出した」のか、それとも「秀秋が前線に出てきて、石田らを山中に下げさせた」のか、どちらの場合なら「成り立つ」でしょうか。ある意味「とんでもない状況」になってきていますけど、廟算値と解析データが一致するのは、二つの展開のどちらでもないんです。私が見つけた展開は、もう一段「複雑」です。結論だけを言えば、勝手に戦線を下げたのは「石田」なのですが、しかし「秀秋」のほうも勝手に出てきているんです。
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