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2018年03月22日04:13

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本史関ヶ原80「北陸の丹羽問題」

○本物の手紙史料だけで読み解く関ヶ原合戦、岐阜戦と同時期に「別の籠城戦」が継続中であることも、忘れてはいけません。その一つが石川県の小松城。

●一〇五号9月13日「差出」徳川家康「宛」土方雄久

○前田利長の小松城包囲戦については、すでにたっぷり書きましたから繰り返しません。ここで問題にするのは、一〇五号の宛名が土方雄久であること。内容が小松戦の関連であるのは、冒頭に「従小松宰相方書状指越候間」とあるから間違いありません。「小松宰相(丹羽長重)より書状が届きましたので」の意味ですね。続く文章は「為被見中納言殿へ進之候」で「お見せするために中納言殿(前田利長)へ送りました」なんです。丹羽の手紙を「利長へ見せた」ことを、わざわざ土方に報せているわけです。なぜ、そんなことをするのでしょうか。ちなみに、続く文章は「此節有御入魂、先々墓行候様に尤候。青木紀伊守も内々申越旨候間、何様にも中納言殿可有相談旨、申遣候間、其方被致才覚御入魂候て、早々越前表御手合之事肝要候」です。無理に直訳すれば「こういうときだから、仲良くしたほうが、この先がはかどるというのも、もっともなこと。青木も内々に言ってきていることがあり、どんなようにも中納言殿と相談すればいいと伝えてあるので、あなたが才覚なさって友好関係を結んで、越前方面でのことをするのが重要である」って感じでしょうか。意味のとりにくい文章ですよねえ?

○「此節有御入魂、先々墓行候様に尤候」については、「小松包囲」の説明のときに書きました。「小松城を包囲布陣で封鎖して、次の大聖寺城に進み、無理な力づくの城攻めをやって、落としたはいいけども、味方の被害も甚大で、居城に帰還することになったが、小松城の包囲は継続している。それまでやめたら、もはや戦争の放棄で全面撤退になってしまうから」という「攻めない合戦の基本理解」がないと、この文章の理解もできないわけですよ。八月の初旬から半月以上も包囲されている小松城。一向に救援軍が来るようすもないため、焦りはじめた丹羽。なにしろ「救援もないのに籠城した」場合は、「干し殺し」で餓死するまで封鎖されるか、「仕寄」で皆殺しにされるか、どちらかってもの。ゆえに丹羽は「この際、和睦したほうが、そちらとしても都合よくありませんか?」と家康に手紙を送ったわけですね。北ノ庄城の青木一矩も、どうやら「今からでも前田家に味方したいのだが」と言ってきた感じ。「青木紀伊守も内々申越旨候間」です。無論「青木とはまだ戦っていない」のですから、家康は「何様にも中納言殿可有相談旨、申遣候間」で「敵ではないのだから、どうにでも利長と相談すればいい、と青木に伝えた」わけです。そういう状況になっているので、家康は「其方被致才覚御入魂候て」と土方へ伝えたわけです。「入魂」は昵懇(じっこん)の当て字で「親交がある」とか「仲良し」の意味ですけども、じゃあ家康は土方に「誰と仲良くしろ」と言っていて、「何を才覚しろ」と言っているんですか?

○土方は、石川県の能登半島にある「石崎城主だった」とされています。「だった」と過去形なのは、俗に「家康の暗殺を企てたのがバレて、隠居させられた」と言われているからです。しかも「土方の計画」には浅野長政も関わっていたという話があります。いわゆる「五大老五奉行」の内で奉行職にあった浅野は、解任されて、隠居させられたってわけ。それでいて「隠居した浅野を、家康が関東に呼び、武州で領地を与えた」という説もあるんです。こっちの説だと「息子の幸長と関係が悪化したので、領地の全部を幸長に譲渡し、隠棲してしまった長政を、家康が迎えて、隠居領を与えた」という話になっているんですよ。

○こういった俗説は、まず「事実の事項」があって、それを「適当な解釈にしてしまう」ことで生じます。この場合の「事実の事項」とは、土方も浅野も「息子に領地を譲り、自分は領地を離れたこと」です。すると「なぜ、そうしたのか」の理由を、天下取り史観で「権力闘争に絡んでいたに違いない」と「解釈してしまう」ってわけです。けれども土方と浅野には、別の意味でも「共通した内容」の手紙史料があるわけでして、土方について言えば、それが一〇五号だってこと。

●家康文書8月23日「差出」徳川秀忠「宛」真田信之
●家康文書8月24日「差出」徳川家康「宛」浅野長政

○前回に書いた真田問題です。秀忠は「真田の仕置きで信州へ出陣するので、あなたも来るように」と沼田の真田信之に伝えています。そして家康は「秀忠が信州口へ出て働くので、あなたも御苦労でしょうが出陣なさって、いろいろ御意見を頼みます」と浅野に「後見役を頼んでいる」んです。一方、一〇五号は「前田軍が小松城を包囲している」はずなのに、土方に手紙を送って「あなたが才覚をなさって、和睦をして、越前方面へ出ることのほうが重要です」と言っているわけなんですよね。だとすれば、居城の「尾山城」に帰還してしまった利長の代わりに、前線に残って「小松城の包囲」を指揮していたのが、土方なのでは?

○そもそも秀吉の没後、幼君秀頼の代行を務めていた徳川家康と前田利家。領地に不在である家康に代わって息子の秀忠が、利家に代わって息子の利長が「自領を統治する」わけですが、経験不足の若者ですから「後見役」が必要なのは同じこと。そこで浅野長政が「豊臣家の奉行を辞して、甲州の自領は息子に任せ、秀忠の後見のため、江戸へ行った」のでしょうし、北陸では土方雄久が「能登の自領は息子に任せ、利長の後見のため、加賀へ行った」のでしょう。合戦ともなればなおさらで、だから浅野は「秀忠の出陣に同行を頼まれた」し、土方は「利長の代理で前線指揮をとっている」のでしょう。ところが「そもそもの話」が消されて「家康と利家は権力闘争で畿内にいる」と解釈されちゃったうえ、包囲布陣も仕寄もないことになっちゃえば、「土方が小松攻めをしている」ことも「浅野が真田攻めをする」ことも、話から消えちゃうってわけなんです。残るのは「丹羽と戦った」と「真田の上田城を攻めた」の「事実の事項」だけで、あとは「ブッ殺し合いをする話」が創作されるのみ。有名な「真田の物語」の中では「上田攻めの指揮を浅野がとった」とは、どこにも書いてありませんが、封建制度の考証にも、合戦の考証にも「合わない」物語のほうが、本当に史実なんですかね?

○一〇五号で家康は、土方に「才覚せよ」と言っています。「利長お坊ちゃんをうまく説得して、小松は終わらせて、敦賀に行ってくれないかな」ってことだと思いますね。講和したほうが得なら、講和すべき。敵は、丹羽よりも大谷です。
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