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2016年06月29日23:53

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関ヶ原史料「天下取りではないのなら…」発端

○明治の日本陸軍参謀本部が編纂した『日本戦史関原役』の巻末に、一号から一三五号までの手紙史料が翻刻されています。慶長五年四月の一九号から始めて、ラストは慶長五年十一月の一三五号。一通りの史料精査が終了しました。ここに収録されていなかった「徳川家康の手紙史料」などが『徳川家康文書の研究』に載っていましたので、慶長五年の分は拾いました。ほかにも『景勝公御年譜』に上杉景勝、直江兼続の手紙、『細川家史料』に細川忠興の手紙、慶長五年のもので『日本戦史関原役』にはないものがあったので、これも拾っておきました。無論これだけでもって、すべての史料に目を通したことにはなりませんが、『日本戦史関原役』は「関ヶ原の合戦」研究のベースになっている資料図書です。定説解釈の根拠史料になっているものは、大部分が収録されています。しかし、これらを一つ一つ、ていねいに現代語に訳してみて、内容の確認をしてみれば、定説解釈に合わないものが、驚くほど多くあったわけなんです。それらの「定説に合わない」史料の大半は、当然のように無視されてきて、歴史解説本の中に取り上げられることもありません。その一方で、「定説と合わない内容なのに、文意を曲げて、定説の根拠史料としているもの」もあるのです。歴史解説本の中では、史料原文が引用されても「一文章」のみであるのが普通なので、「全文を読むと意味が違う」ことは知られていないようです。自分自身、古文が読めるようになって、実際に読んでみるまで、知りませんでしたからね。なお、「定説に合わない」史料の内容には、共通して「二つの要素」が存在しません。一つは「合戦における闇雲な攻撃」であり、もう一つは「徳川家康の天下取り」です。関ヶ原の合戦と言えば、もともと「天下分け目の関ヶ原」と言われているものですから、天下取りの戦いであることが当然だと思うのでしょうけども、ならばなぜ、「天下取りの意味に合わない」史料が多くあるのでしょうか。それらは江戸時代になって、偽造されたものなのでしょうか。徳川政権下の江戸時代には、神聖視されるべき神君家康公が「自らの野望で、天下取りを狙った」ということは、書けないタブーだったのでしょうか。そういう可能性も「ありうる」と言えますが、その場合、問題になるのが「合戦の記述」です。織田信長の手紙史料や細川忠興の手紙史料、これら「古文書学の筆跡研究によって本物と確定している」原本史料と、合戦の状況が一致するのは「定説と合わないほう」なのです。

●徳川実紀「東照宮御実紀附録」巻十一「本多佐渡守正信が、中納言殿の御供をして、二条の御城で拝謁致したときのこと。石田三成の息子が、妙心寺で寿性院の弟子となって、すでに幼年のころから仏弟子となっているのですから、お許しくださいませと、寺の住持をはじめ、一山の僧どもが願ったとのこと。この話を聞かされた正信は、それはすぐにも御許しになるべきです。三成は、徳川家に対して良い奉公を致した者なのですから、その子供である坊主の一人や二人、お助けになられたとしても、なんの問題があるでしょうか、と言った。神君は、三成が私に奉公したはずもないのになんの意味だ、と厳しく問われたので、正信は答えた。このたび三成が妄想し、こんなことを企てなければ、お勝ちになることもなく、徳川家が統治する世の中にもならなかったのです。だから治部こそが、徳川家の大忠臣だと思うのです、と言ったので、微笑みになられると、おがくずも言えば言えるものだな、と御冗談をおっしゃった」

○徳川幕府の公式記録『徳川実紀』は、関ヶ原の合戦から二百年ほどあとに編纂されたものです。集めた史料をまとめたものなので、出典が記されています。この話は「霊岩夜話」という史料から写したもの。歴史学者ではない自分には、いつごろに書かれた史料なのか、その知識もありませんが、同時代記録でないことぐらいは、すぐにわかります。冒頭で「本多正信が、二条城で拝謁したときのこと」と書くからですね。原文は「二条の御城にて謁し奉りし時」で、「あのときに、こんな話があったと聞いた」の意味であって、「その場にいた者が、実際に見聞きした話を晩年に書き留めた」ではありません。又聞きの又聞きであろうとも、伝えられてきた話を本当に聞いたのであれば、まだいいほうで、著者が創作した可能性もあるでしょう。ともあれ、全文を読むと、正信は「冗談を言っている」ように思えますね。これが実話だった場合、家康自身には「天下を取りたい意思はなかった」ことになります。創作だった場合も同じことで、作者は「家康の認識」を「反逆者を倒しただけだと思っている」と設定しているわけです。だから正信が言うのです。「結果的に天下を取ったと思えば、めでたいことじゃないですか。三成が反逆してくれたおかげのようなものだから、僧籍に入っている子供ぐらい、許してあげましょうよ」と。家康が笑って答えた「おがくずも言えば言えるものだな」の言葉は、「ものは言いようだな」の意味になりそうです。

○逆に、家康が当初から「天下を狙っていた」と想定してみましょう。あの手この手と家康のほうから仕掛けていった結果、まんまと三成が引っかかって、挙兵したことになりますよね。「三成が引っかかってくれたおかげで、見事に天下が取れた」とも言えますが、それは同時に「家康の力量で、三成を引っかけることに成功した」意味でもあるわけです。そこに正信が「家康様のお力ではなく、三成のおかげですよ」と言うのであれば、もはや冗談になりません。「思い上がるな。寛容になりなさい」と諫言している意味になり、それを家康が素直に受け入れるとしても、「ものは言いようだ」と笑うのではなく「さすがに正信は心得ているな」と「正信を評価する話」になるのではないでしょうか。または家来たちが、「僧籍に入っていても、連座は連座、息子を許してはなりません」と言うのを、家康が「まあ、そう言うな。三成のおかげで天下が取れたようなものだからな」と答えるのなら、「家康の寛容さ」を言う話になります。要するに「天下を取ったという結果」を「あえて三成のおかげだと言ってみる」の状況は、もともと「天下取りの戦い」だったと考えている限り、どこかおかしくて、実話の可能性はほぼないものとなるのです。ちなみに、この話は別巻の「実紀附録」に掲載されています。二百年のあいだに定着した話は本巻のほうにまとめられていて、理解の「合わないもの」が「附録」に入れてあるのです。すなわち『徳川実紀』の編纂者も、本巻には「天下取りの話」を載せているってことです。だからと言って「こんな話は嘘だ」と抹殺するのではなく、わざわざ別巻を構成して、残してあるのです。『徳川実紀』の端々には「信用しがたい話だが、嘘だと断定もできないので、後世の研究のために載せておく」の記載が見られます。ゆえに考えてみるわけですね。「関ヶ原の合戦が天下取りではなかったのなら」と…。
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