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2016年04月15日17:19

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関ヶ原史料「清正と如水」地方情勢一一九号

○時間が先へ進んでしまいますけども、九月二十三日の手紙です。書いたのは加藤清正で、宛名は黒田如水です。九州での動きを、流れのついでに見ておきましょう。清正は、熊本の南方にある小西行長の宇土城へ、出陣している模様です。

●手紙一一九号「去る十九日の御手紙、今日二十三日の日の出ごろ、宇土に届いて拝見致しました。すなわち熊谷の城を十七日から御取り巻きだそうで、もっともだと思います。もはや内部から懇願してきているそうで、落城も時間の問題でしょう。こちらでも、そちらに続いて働きまして、一昨日、宇土へ押し寄せ、外構えを一枚、押し破って、町はことごとく放火して、裸城にしてやりました。内部のようすは、頑丈なふりをしていますが、一段と兵も少ないように見えます。町人も百姓も、城の周辺の人質は、しっかり押さえてあります。このぶんなら必ず落城、時間もかからないと思います。しかし、寄せられる場所は一切ありませんので、城内は小勢であっても、やりようはない感じです。ただし、フケのほうにも埋め草は多くありますので、仕寄は三方それぞれから命じました。その仕寄の端を押し付けて、フケの内側にある総構えを押し破ってしまえば、ますます落城も間近くなるかと思います。兵糧もないのではないかと申しております。そのほか隣国などに気遣いなこともありませんので、御安心ください。次に柳川方面へ働くこと、心得ております。たとえ鍋加が加勢しようとも、働くからには不備のないよう、覚悟を決めております。かくて、いまだ手もあきませんが、手があいて動けることになれば、こちらから相談を致しますので御安心ください。東からの御吉報はないのでしょうか。御聞きしたいです」「追伸。御見せくださった手紙、よく理解しました。ただちに御返却致します。改めて御会いできる日を」

○一読して本物に思えます。偽書には見られない「仕寄」についても、現実に則した記述です。一つわからないのは「フケ」の言葉。普通は「湿地」だとか「泥の深い田」などを意味しますが、「フケのほうに埋め草が多くある」と書いてあるので、同様の意味で理解していいようです。「埋め草」で堀を埋めて、仕寄を城壁まで押し付けてしまい、フケにある「総構え」を破壊すれば、「落城も間近となる」と言うのですから、ちゃんとした「城攻め」ですね。「とにかく攻め込み、すぐにも城を落としてやる」と豪語する手紙もありますけど、こういう記述の手紙史料も存在しているわけなんです。歴史家は注目しませんけどね。

○如水のほうは、大分県の国東半島で、熊谷直盛の安岐城に対して包囲布陣をかけているようです。如水の手紙「一一〇号」には「十二日にカケヒ城を取り巻いた」とありましたが、さすがに「カケヒ城」が不明なため、定説でもそれは無視しているようで、最初に「立石の大友と戦った」あと、次に攻めた先が「熊谷の安岐城」だとしています。こちらの一一九号では「熊谷の城を十七日から御取り巻き」とあるだけで、それ以前の状況は書かれていません。ただ、清正側の情報として、原文だと「一昨日宇土へ押寄外構一皮押破」という文章。これを「一昨日、宇土へ押し寄せ、外構えを一枚、押し破って」と逐語訳してみましたが、この理解であれば「手紙の日付二十三日の一昨日」すなわち二十一日に「宇土城に対して布陣した」の意味ですよね。如水の十九日付の手紙が二十三日に届いていることも合わせますと、「如水は十六日に出陣し、それを報せる手紙を出し、受け取った清正もすぐに対応し、二十一日に出陣」となるでしょう。熊本から宇土までは遠くないので、その日に宇土城へ包囲布陣。翌日に外構えを破って、町を放火。二十三日に仕寄を命じたので、如水に報せる返事を書いた、というスケジュールになりそうです。ただしその場合、如水の出陣は「十六日に、安岐城を包囲する目的で」となって、「十五日以前の大友戦」が消えてしまうのです。とはいえ、古文の理解は「ここが難題」でして、「宇土へ押し寄せて、一昨日に外構えを破り」と読むことも可能なんですね。これなら宇土包囲の開始を二十一日より前に考えることができます。なぜ「二通りの読み方ができるのか」と言えば、手紙をやり取りしている当人たちは、如水がいつ最初の連絡をしてきたのか、知っているからです。「一昨日」が、「宇土へ押し寄せ」と「外構えを破り」のどちらにかかる意味なのかを、文法ではなく、状況で理解するため、「同じ書き方でも、どちらの意味なのかがわかる」のです。よって、如水から「杵築城へ後ろ巻き出陣」の報せを受け、すぐに清正も「宇土へ出陣した」とすれば、包囲の開始は十六日ごろとなるでしょう。しかもそのほうが、「如水の攻撃対象が、なぜ安岐城だったのか」も理解しやすいですね。安岐城は「杵築城に最も近い敵城だから」です。反対に「大友戦がない」となった場合、今度は「なぜ如水は出陣の決断をしたのか」が問題となるでしょう。結局のところ「味方が攻撃されたから出陣した」または「出陣命令が来たから出陣した」のどちらかではあるはずなので、その点で気になるとすれば、追伸の「御見せくださった手紙」です。徳川家から、もしくは東軍にいる黒田長政から、重要なことを報せる手紙が来ているのは間違いなくて、しかし内容を推測できる記述がないのです。これも当然「当人たちはわかっているから、いちいち書かない」わけですが、この手紙だけを読んで判断するしかない現代人には、この書き方だと「先に如水が出陣して、その後に東軍から手紙が来た」ようにも読めてしまいます。確定は難しい感じですね。
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