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2016年03月31日13:05

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関ヶ原史料「三成の嘘がバレた?」決戦前

○前回に見た「手紙八二号」は、八月二十五日付で上杉景勝が書いたもの。一部に「後世の加筆」が挿入されてしまったと見られるものの、元は「本物の手紙史料」だった可能性が高いもの。もし本当にそうだとすれば、「景勝は、八月二十五日ごろになって、ようやく大坂の状況を知った」ことになるという「驚くべき情報」が示されていたわけです。その点を改めて確認していこうと思います。

○宛名は長束正家、増田長盛、石田三成、前田玄以、毛利輝元、宇喜多秀家の五人連名。第一文から第四文までは、「もらった手紙に対する返事の形式」で書かれています。では、これら五人の連名でもって、対応する内容を書いた手紙があるのかと言えば、確かにあるのです。ただし、上杉宛てではありません。「手紙五三号」真田信之宛てで、伏見城が落ちた直後の八月二日付。これは本物と見られる手紙であって、しかも「八二号」の第一文から第四文に該当する内容が、文中に確かに書かれています。いわく、家康が掟に背いたから戦うこと、関東へ出た大名たちの人質は押さえたこと、伏見城を乗り崩して鳥居らを討ち果たしたこと、細川忠興の領国を攻めていること。見事に四項目が揃っていますし、「八二号」で書く順番とも一致です。そして「五三号」こそが、実際には「徳川との戦争を宣言したもの」と見られますから、真田信之に送ったのみならず、同文コピーの手紙が各地に発送されたのではないかと考えられますし、すなわち上杉にも届いてきたのではないでしょうか。だとすれば、やはり景勝は「八月二日付の五人連名の宣言」を読むまで、関西で起こっている事情を知らなかったことになるわけです。にわかに信じがたい内容ですが、実のところ、関連すると思われる景勝の手紙が、上杉家の公式の家史『景勝公御年譜』に掲載されています。

●上杉景勝の直江宛て「あれ以降、そちらから何も言ってこないので、心もとないです。そちらは何も変わりないでしょうか。こちらは、どこにも異状はないので安心してください。南山も、その後に変わりはないでしょうか。いろいろ伝えてきてほしいのです。米沢方面、ますます異状もないことだろうと思います。実は関東のほうで、ようすの変なこともあるので、おいおい連絡をください」

○景勝は会津にいるようで、どうやら直江兼続は自領の米沢にいるようです。しばらく音信がないらしく、「連絡がほしい」と言っている手紙ですが、その文中に「関東のほうで、ようすの変なことがある」という文章。原文では「関東下筋之様子珍儀茂候者」です。一体どんな「珍儀」なのかは不明ですが、「特別に変わったことがあった」という意味ではあるわけです。この手紙の日付が八月二十四日です。このときに「初めて関東の事情を知った」とするならば、なるほど景勝にとって「珍儀」なことでしょうね。「だから徳川は兵を引いたのか」という理解をしたのだろうと考えられるわけです。ゆえに上杉軍は、これ以降、山形の最上へ攻勢に出るのでしょう。「もはや徳川は侵攻してこない」と判断したわけです。というわけで「八二号」も、全文はともかく、ベースは本物の手紙だったと思えるんです。ただし、これによって、同時に「大問題」が生じるのです。

○石田三成と直江兼続が事前に共謀していた、と解釈されるときの根拠史料は、石田が直江に宛てた二通の手紙「二四号」と「三〇号」で、どちらも偽書でしかないものです。しかしもう一通、島津義弘が上杉景勝に宛てた手紙「三一号」がありまして、この中で島津は「貴家の家老も、あなた様も、同意しているとのことを伺いました」と書いていたわけです。これによって、少なくとも「上杉と事前に連絡はついている」こと、そして「表向きは細川成敗に同意した意味にしている」という解釈をしたのですが、「八二号」を基本的に信じるならば、事前の連絡は何もなかったうえに、景勝は「細川成敗も知らなかった」ことになってしまうんです。こういう矛盾が生じたとき、定説解釈では「景勝が、本当は知っているのに知らなかったふりをして、嘘を書いているのだ」という「嘘つき」で、すぐに片づけてしまうんですよね。でも、嘘をついているのは石田三成です。島津の「三一号」には、「輝元、秀家をはじめ、大坂奉行衆、小西、大刑少、治部少が話し合われまして」の記述があって、だけど「輝元は事前に知らされていなかった」こと、「辻褄合わせのために安国寺がわざわざ説明に行っている」ことを指摘しました。「まだ知らない」輝元が「すでに知っている」と嘘を言ったのは、「おそらく石田三成だろう」とも指摘しました。そう考えれば、謎めいた安国寺の行動にすべて説明がつくからです。だとすれば、このとき「上杉も知っている」と嘘をついたのは、石田だってことになるわけです。だから「三一号」の末尾には「詳しくは石治が書く」とあるわけです。ところで、この「八二号」が大坂城に届いたとすれば、読んだ毛利輝元はどう思ったでしょうね。ちなみに伏見落城の直後、大坂奉行衆と石田が連名で、細川の飛び地領「杵築」に送った降伏勧告の手紙「五五号の二番」には、「関東に関しても、伊達、最上、佐竹、岩城、相馬、真田安房守、景勝らが申し合わせて、敵対していますので、すぐにも関東八州の支配はできなくなります」とあるわけです。けれど「八二号」で景勝は、「関東に出られませんでしたが、来月中には佐竹と相談し、ぜひとも手段を取るつもり」と書いているのです。大坂側の理解では「上杉たちが協力して徳川と全面的に敵対しているので、徳川軍は西進できないはず」だったのに、上杉の返事は「来月には徳川と戦うつもりもあるよ」ですから、輝元の戦略構想は根底から崩壊したようなものです。もちろん輝元は「秀忠軍が今どこにいるのか」を知りません。「中仙道に出ていること」も「真田に足止めされている定説」も、知っているのは後世の人間だからであって、輝元にわかるのは「東北連合軍に対応する兵力を徳川は残しておく必要がない」ことだけなのです。では、八月二十五日に会津で書かれた「八二号」が、大坂に届いたとすれば、それはいつごろになるでしょうか。二十日はかかると見れば、まさに決戦の前後です。そんな大事なときに「石田の嘘がバレた」のでしょうか。もしも「直前」だったなら、今さら「徳川軍の全面西進を想定しなければならない」ことになって、毛利軍は真っ青になりかねない事態です。果たして景勝の返事は、本当に届いたのか、届いたのなら「いつ」なのか、吉川軍の行動や輝元の動向、戦後処理の状況も含めて、徹底的な分析の必要がある重大問題となるわけですね。
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