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2016年03月13日02:03

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関ヶ原史料「周辺の状況」家康出陣一〇三号

○東美濃の妻木貞徳が、また報告してきた模様。家康の返事の手紙、九月八日付。

●手紙一〇三号「たびたびの手紙、喜んでおります。それも、そちらの高山の城をあけたことについて、あなたの兵が移られたそうで、納得です。ますます油断のないようにするのが肝要です。今日八日、白須賀まで着陣しました。なお、永井右近大夫が伝えるでしょう」

○家康の妻木宛て「手紙六九号」八月十五日付がありました。こちらの一〇三号には「たびたびの手紙」とありますので、「六九号」を含めて何度か手紙が来ているのだろうと思われます。文中の「高山の城」についてですが、岐阜県で「高山」と言えば普通は「飛騨高山」を思い浮かべてしまうところ、ここでは東美濃の話でしょうから、現在の土岐市土岐津町高山だろうと見られています。『徳川家康文書の研究』にも掲載されていて、妻木家所蔵の原本があるようです。宛名の「妻木雅楽助」を妻木忠頼として、田丸忠昌の支城である高山城を、戦闘のうえで奪取した、と解説しています。ちなみに「六九号」には、原文で「土岐郡之儀成次第才覚肝要候」の文章があって、「できるなら土岐郡を取っちゃいなよ」と言っている意味だと解釈されているわけですね。で、その通りに妻木は戦闘に出て、「田丸の高山城を攻め取った」という理解なのでしょう。つまり「才覚」の言葉を、「うまいこと立ち回れ」と「けしかけている」意味で捉えているわけです。しかし一〇三号の原文は「高山之城明申付而」です。「明け申す」であって、「明けせしめる」あけさせた、「明けられる」あけることができた、というような「妻木の側が、そうさせた」意味ではなく、高山城が自発的にあけたような表記になっているのです。よって『徳川家康文書の研究』では、「奇襲で守備兵を追い出した」と説明しているのですが、「妻木の才覚」で「高山城が明け申す」のなら、「説得に応じて開城した」ぐらいの意味に思われるのです。しかも、現代語で「城を開けた」は城の門を開いた、「城を明けた」は城を立ち退いた、と違う意味になりますけども、史料ではどちらも「明」の字でしかないことが多いし、立ち退いたのなら「明け退き」と書くように思うのですけどね。「妻木の兵が移る」にしても、「奪い取った城に入る」とは限らず、防衛強化のために合流するケースは、丹後の田辺城、伊勢の安濃津城でもあったことだし、尾張の犬山城に、美濃の黒野城主の加藤貞泰らが「移っていた」話もあったじゃないですか。単純に「戦うこと」ばかりを、安直に考えすぎているように思いますよ?

○次も家康の手紙で、九月九日付。今度の宛名は伊勢の福島正頼です。

●家康の手紙九月九日「手紙を拝見致しました。今日九日、三州岡崎まで着陣しました。そちらは敵もほど近いので、何事も油断なく処置をすることなどが大事です。一両日中に大垣方面へ出るつもりです。なお、着いてから伝えるつもりですので、細かくは書きません」

○福島正頼は、福島正則の実弟だそうです。正則が江戸時代初期に領地没収されてしまっているため、手持ちの史料に「福島家のもの」がほとんどなくて、史料確認ができていないのですが、当時は伊勢の長島城主だそうです。正則の領有する尾張と隣接する地域で、木曽川の河口のあたり、三重県桑名市長島町。もう一通、正頼宛ての手紙があります。家康が「出陣を延期」した八月二十三日のもの。

●家康の手紙八月二十三日「村越茂助にいちいちの説明を聞き、喜ばしく思います。何もかも理解しました。このたびは万事に情を通じておられるとのことで、これも満足しております。こちらのことについては、米津清右衛門から細かく伝えさせますので省略します」

○村越が清洲から戻ったことを、前線に報せた「同文コピー」の手紙があったわけですが、実はこれもそのうちの一つで、あいだに一文が入っただけ。あとはまったく同じ文章でしかありません。でも、わざわざ入った一文によって、正頼が会津方面出陣に出ていなかったことが推測されます。福島正則が清洲城へ戻り、豊臣軍団が集結してくると、もちろん正頼は連絡を取って、味方であることを表明したわけでしょうね。それを「村越から聞いた」家康は、前線の者たちだけでなく、正頼にも手紙を送ったという次第。受け取った正頼は、すぐさま返事を書いて、おそらく「伊勢の情勢」を伝えたのだと思われます。だから九月九日の返事で家康は、「そちらは敵もほど近い」と書いたのではないでしょうか。だとすれば、定説で語る「伊勢の戦闘」は、実は「なかった」ことになりそうです。

○「本物と見られる手紙でさえも、伊勢で起こっているはずの合戦については、何も触れていない」と、前に指摘しました。西軍が伊勢へ出陣したことを記す史料は、「偽書としか思えない」石田三成の手紙のほかには、「七二号の一番」島津の手紙に「長曽我部殿は近日、勢州に着陣とのこと」という伝聞情報があったのみです。ちなみに講談社学術文庫の『関ヶ原合戦』は、定説どおりの「安濃津城の激しい攻城戦」を解説していて、その根拠は「庚子伊勢国諸城始末」という史料だそうです。しかしこれもそうで、「仕寄もなしに力づくで攻め込み、味方に被害ばかりを出して、結果的に城を攻め落とせない城攻め」を書くのはフィクションなんですよね。島津の手紙が記す「長曽我部の伊勢出陣」が本当の情報ならば、それは「敵対する安濃津城を攻めるため」ではなくて、「伊勢にいる味方を守るため」と考えるべきなのかもしれません。北の長島城に福島正頼がいて、南の安濃津城に富田信高、松阪城に古田重勝がいて、その中間地域に「西軍に付いた」とされる桑名城の氏家行広、神戸城の滝川雄利がいるわけです。彼らの防備の援軍として、派遣されたのではないでしょうか。しかも島津の手紙では、「長曽我部も立花も、軍役数を大きく上回って出陣してきた」と書いています。この点を考えれば、すでに大坂へ出てきていた吉川も安国寺も「軍役数しか連れてきていない」ことになるはずなので、「国から後続を呼び、増員するまでは出陣していない」可能性。八月中の西軍の行動は、いろいろ考える余地がありそうです。
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