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2019年09月24日00:44

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総論20「小谷攻めの戦略」合戦考証80

○若狭へ出陣したら、謀反は嘘でした。朝倉の「たくらみ」を知って、討とうとしたら、浅井に裏切られました。京都へ逃げ帰った信長は、岐阜に戻ると、次に北近江へ進攻します。そして「姉川合戦」です。このとき「朝倉景健の八千」が参陣しています。ちなみに『信長公記』は、浅井の兵力数を「五千」と書いていましたが、浅井の領地規模による「動員兵力数」は三千余。実は「浅井の五千」の中に「越前から先に呼んでいた援軍の二千弱」が含まれているんです。たけくらべ城と、かりやす城にいた者たちが、そのまま浅井の配下にいますので、朝倉の出動兵力数は、総勢で一万。当主の義景こそ出てきませんでしたが、越前には留守番しか残ってないほどの「全軍出動」なんです。だとすれば、一乗谷へ「攻め込む」までもなく、北近江で朝倉軍と全面決戦ができちゃっていませんか?

○ゆえに「私の場合」は疑問に思うんです。信長が「本当に戦いたかった相手」は、朝倉と浅井の「どっちだったのだろうか?」という点に。しかし「通説」は単純な解釈で「越前を攻めたから、朝倉を討つ」「小谷を攻めたから、浅井を討つ」と言うのみです。そして「合戦研究をする歴史学者たち」も、それをなんの疑問もなく受け入れちゃって、完全に「前提としている」んじゃないですかね?

○では、「兵力数」で確認してみましょう。史料記述によって「参陣したメンバー」がわかるなら、およその出動兵力数も算出できるんです。「越前出兵」のときは六千〜七千です。越前で「朝倉を討つ」のが目的ならば「二万規模は必要」なはずが、若狭で「謀反の討伐」であるなら「五千程度でいい」わけですね。そしたら今度の「北近江出兵」です。六月二十一日「小谷城攻め」の際に「虎御前山と雲雀山に布陣したメンバー」から織田軍の総数を算出すると、一万一千余なんです。浅井軍に「越前の援兵」を加えて、「小谷の籠城兵力」は五千前後。なお、敵に倍する兵力を出すのが『孫子』の書く「兵法の基本」ですので、信長の動員兵力数を見る限り、今回の狙いは「小谷城の浅井」と言えるかも。朝倉の総力出陣を受けた「敵の総勢一万三千」より、織田軍のほうが少ないのですからね。

○しかし、忘れちゃいけませんよ?「姉川合戦」と言えば「徳川家康の奮戦」が有名じゃないですか。なのに『信長公記』が書く「二十一日に布陣した者」の中に「家康の名前」がないんです。ということは、二十一日の時点で「まだ徳川軍は到着してなかった」にしても、その後に合流してきたと考えるべきなのでは?

●21日「織田軍が小谷城に対陣」
●22日「織田軍が小谷の前から撤収」
●23日「弥高で織田軍に徳川軍が合流」
●24日「織田軍と徳川軍は、姉川の南、竜が鼻に布陣」
●25日「朝倉軍が小谷城に到着」
●26日「朝倉軍と浅井軍が、姉川の北、大依山に布陣」

○上記の日程が、『信長公記』などでわかる「両軍の動き」です。わずか三日で徳川軍が合流すること、五日で朝倉軍が来ていること、これらを考えれば、徳川軍も朝倉軍も「事前に動員されていた」と見るべきですね。そして「もう一つのポイント」です。信長は「小谷城に対陣した翌日」に、なぜか撤収してしまいましたが、「もしも撤収しなかったら」と仮定すると、二十三日に徳川軍が、二十五日に朝倉軍が「小谷の付近」に到着していることになるじゃないですか。家康の兵力数は『徳川実紀』に三千とありますが、実は「配下に水野軍の三千」がいますので、六千弱です。よって織田軍一万七千、浅井側一万三千が「小谷の付近で対陣した」と考えられるんです。しかも「信長の動員可能兵力数」は、この程度ではないんですよ。ほかにも味方がいます。そして『言継卿記』に以下の記述。

●『言継卿記』6月19日条(一部抜粋)
「明日武家之江州御動座、延引云々。摂州池田、内破云々」

○「武家」とは将軍のこと。なんと将軍の義昭自身が「北近江へ出陣する予定だった」んですって。「予定」なので数値は不明ですが、六千は可能な数字、ゆえに織田軍は総勢で二万三千です。もはや浅井側の倍数に近づきます。これほどまでの「動員」をかけていたなら、朝倉の総力出陣も「想定内」のはずで、だからこそ信長の目的は、浅井と朝倉の「どっちなのか?」という疑問なんです。つまり、朝倉軍を撃破する「戦略目的」で、小谷城を「戦術目的」としたのか、それとも反対に、小谷城を落とす「戦略目的」で、朝倉の出陣を「戦術目的」としたのか、どっちが「戦略上の敵だったか?」という問題。これが戦略ですよ?

○ただし「将軍の出陣」は、事情が生じて「延期」されたそうです。その報告が信長に届いたのは、使者の到達時間を「二日間」と見て、二十日の夜になりそうです。すると信長は、二十一日の朝に「小谷攻めの開始」なんです。予定の兵力数が下がったことで「信長はどう考えたのか」が、戦略を理解するポイントです。
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