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2019年12月05日00:49

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宛名の土橋平尉は何者なのか

○新発見の「明智光秀の原本手紙」をさらに読解するために、宛名の人物「土橋平尉」が何者であるのか、その点を見ていきます。関係するところを再度引用。

●六月十二日「明智光秀の土橋平尉宛」本文中の第二文章
「一、高野、根来、其元之衆被相談、至泉河表御出勢尤候。知行等儀、年寄以国申談、後々迄互入魂難遁様、可相談事」

○「高野」とは、和歌山県にある真言宗の総本山、高野山金剛峯寺のこと。「根来」は高野山から分裂した新義真言宗の根来(ねごろ)寺のことで、やはり和歌山県にあります。当時の寺や神社は「荘園領地」を持っていて、荘園の代官を務める地元豪族がいるわけです。彼らにとって、寺は「納税先の荘園所有者」であるだけでなく、信仰上の「本山」でもありますから、ある程度は「寺の指示」に従って動くんです。しかも紀伊国(和歌山県)は、守護大名が内紛で分裂して以来、実質的に「守護不在」の地域だったんですね。よって「高野の衆」とか「根来の衆」といった地元勢力が、それぞれ集団化して、独自の行動をしていました。

○土橋が所属している「其元之衆」というのも、和歌山県の地元勢力です。高野と根来が真言宗なのに対し、浄土真宗本願寺派の「雑賀(さいか)の衆」です。手紙の宛名部分に「雑賀五郷・土橋平尉殿」と書いてありますので、この点は間違いありません。現在の和歌山市内の西部、紀ノ川の河口の近くに「雑賀」の地名が残っていますけど、当時の「雑賀五郷」は、和歌山市の大部分を占める範囲なんです。それなりの勢力を持った「有力豪族の集団」だったと見られています。

○フィクションの中では「強力な鉄砲集団」で知られる雑賀衆。いくつかの内部集団がありまして、最有力の「中心集団」が鈴木家です。それに準じる家の一つが土橋家で、当主の名乗りは『信長公記』だと「若大夫」ですが、『織田信長家臣人名辞典』では「平次」です。どちらの名乗りも実際に使われているそうで、よって「若大夫」も「平次」も同一人物とされています。その息子が問題の「平尉」なんですね。ちなみに「平尉」の実名は、記録史料だと「重治」と書かれるのに、手紙の署名は「春胤」しか見つかっていないらしいです。実名も未確定なくらい、よくわからない人物なので、手紙の理解も苦労することになるわけです。

○元亀元年の七月に、阿波(徳島県)の三好軍が大坂に上陸。福島と野田(現在の大阪駅の近く)に砦を築きました。このころ本願寺は信長と講和していましたので、雑賀衆も織田軍に加勢して、野田砦への攻撃に参加していました。ところが急に本願寺が離反。途端に雑賀衆も織田軍へ攻撃を開始。いきなり背後を攻められた信長は、急いで撤退せざるをえませんでした。以来、雑賀衆は「本願寺の支援勢力」として、織田軍に敵対していましたが、天正五年に「雑賀の荘」を包囲されたとき、降伏を表明して、許されたのです。その後も散発的な反抗をしたようですが、攻め滅ぼされることもなく、雑賀の地に勢力を保っていました。天正八年に本願寺が「事実上の降参」となって、門主が大坂を立ち退いたときは、雑賀郷にある「鷺ノ森」に門主を迎え入れています。というのが、大雑把ではありますけど、雑賀衆の「過去の経緯」ですね。ちなみに「雑賀衆が信長に敵対していた」期間、根来衆は正反対で「織田軍に味方していた」のです。元は敵対関係にあった雑賀衆と根来衆が、光秀の手紙によりますと「被相談、至泉河表御出勢」っていうわけ。高野衆も加えて相談の上、泉州河州(大阪府)方面に出陣。

○「国語的読解」に必要なのは、国語の知識だけですが、次の段階として、このような「歴史の知識」を加えていくと、いっそう文意が鮮明になってきます。背後の宗派も違う「バラバラの勢力」が、急に仲良くなったかのように、三者で相談し合って出陣しているのですから、光秀も「のちのちまで互いの昵懇、遁(のが)れ難(がた)きように、あい談ずべくこと」と書いたのではないかと思えてきます。同じ国の中で、いがみ合っているよりも、これを機会に団結するようになれば、いいことですから、そのためにも「よく話し合うように」と言っている意味に「読める」わけですね。加えて「知行等儀」の表記もポイントです。これがもし「知行之儀」だったなら、領地の所有権や、領地の境界のことなど「領有権に関する話」に限定されるでしょうが、「知行等」とあるので、もっと広い意味になるはずでしょう。「年寄、国を以て申し談じ」と言うのも、守護不在の紀伊国で、彼らの勢力が「まとまる」ことを言っているようにも思えるわけですね。

○天正七年の当時、本願寺はまだ大坂にあって、信長と敵対状態を続けていました。摂津では荒木村重も離反状態です。武田勝頼の手紙「吉川元春宛」に書いてあったごとく、本願寺と荒木が「仲間」であり、そこに毛利が「味方していた」のであれば、本願寺の支援をしていた雑賀衆は、毛利が保護している「備後の義昭」と、間接的なつながりがあったことになります。七年ですと「雑賀衆は降伏後」になりますが、前述したように、その後に「本願寺を受け入れている」のが雑賀衆です。本願寺との関係が切れてしまって、完全に「信長の支配下勢力になっていた」とも思えません。ゆえに天正十年「本能寺の変」を知った途端に、雑賀衆の「土橋平尉」が義昭に事件を報せて、「義昭の復権に協力を申し出た」可能性は、確かに「ある」と言えるでしょう。とはいえ、これではまだ「そういう文意に読める」というだけであって、決定打とするには、足りないんですよね。
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