mixiユーザー(id:63255256)

日記一覧

○米沢から出陣した直江兼続が、最上義光の山形城に包囲布陣をかけたのは、直江の書いた手紙によると九月十四日です。義光は当然、最も近くにいる味方「伊達政宗」に、緊急事態を報せたはずでしょう。よって政宗が、この状況を家康に報せた手紙があるわけです

続きを読む

○今度は東北に目を向けます。直江兼続の書いた手紙が、上杉家の家史『景勝公御年譜』に掲載されています。日付は九月十五日です。●直江の手紙「去る十三日に、最上領の畑谷城を乗り崩し、殲滅を命じ、城主の江口五兵衛父子を含め、首を五百余り討ち取りまし

続きを読む

○時間が先へ進んでしまいますけども、九月二十三日の手紙です。書いたのは加藤清正で、宛名は黒田如水です。九州での動きを、流れのついでに見ておきましょう。清正は、熊本の南方にある小西行長の宇土城へ、出陣している模様です。●手紙一一九号「去る十九

続きを読む

○加藤清正は熊本にいて、黒田如水は大分県の中津にいました。今度は如水の手紙です。宛名が藤堂高虎なので、藤堂家の記録から採録されています。日付は九月十六日。関ヶ原決戦の翌日ですが、当然、如水はそれをまだ知らないわけです。●手紙一一〇号「清洲で

続きを読む

○九州の熊本にいる加藤清正が、状況を伝えている手紙です。徳川の家来、本多正信と西尾吉次に宛てたもので、九月七日付。●手紙一〇二号の一番「わざわざ申しあげます。どのあたりまで御出馬なされましたでしょうか。お聞きしたく思い、お手紙しました」「私

続きを読む

○岐阜県西部の関ヶ原で、東西の両軍が衝突したのは九月十五日です。そのころにはほかの地域でも、別の戦闘が起こっていました。細川幽斎の丹後田辺城で包囲戦。京極高次の近江大津城で攻城戦。これらについては残念ながら、戦闘の詳細を記した手紙史料はない

続きを読む

○大変な話になってきました。まだ断定はできませんが、吉川広家は「裏切り工作に応じたから動かなかった」のではなく、「戦略構想の崩壊で、動けない状況に陥っていた」可能性が出てきたわけです。考えてみれば、「秀忠は関ヶ原に間に合いませんでした」とい

続きを読む

○前回に見た「手紙八二号」は、八月二十五日付で上杉景勝が書いたもの。一部に「後世の加筆」が挿入されてしまったと見られるものの、元は「本物の手紙史料」だった可能性が高いもの。もし本当にそうだとすれば、「景勝は、八月二十五日ごろになって、ようや

続きを読む

○定説解釈において、南宮山に布陣した吉川広家は、関ヶ原決戦にも参加しなかった、とされています。しかし、そもそも吉川軍が「南宮山にいたのかどうか」も、実ははっきりとしていませんし、「裏切り工作の根拠」とされてきた手紙史料の内容は、定説で言うの

続きを読む

○まずは家康が、栃木の大田原晴清に宛てた手紙。九月十三日付。●手紙一〇六号「手紙の到来、喜ばしいです。それというのも、そちらでは何も変わりがないということなので、納得です。ますます防備などに油断なく命じるべきでしょう。こちらでは、今日十三日

続きを読む

○もう一回分、お付き合いくださいませ。石田三成の増田長盛宛て、九月十二日付。冒頭もダメなら中ほどもダメ、最後までダメでしかない偽書史料ですが。●手紙一〇四号後「たびたび申し伝えているように、金銀、米、銭、与えるのなら、このときです。私なども

続きを読む

○前回の手紙、石田三成の増田長盛宛て、九月十二日付。冒頭から「丸わかりの偽書でしかないもの」でしたけど、一応、続きを見ていこうと思います。●手紙一〇四号中「味方の勢州江州の人数が加わってくれば、なんとか手段もあると思っているのに、のびのびと

続きを読む

○石田三成が書いたとされる長い手紙があります。日付は九月十二日で、宛名は増田長盛です。このとき石田は大垣城にいて、増田は大坂城にいたと見られています。あまりに長い手紙なので、三回に分けて、順に見ていこうと思います。ただし先に言っておきますが

続きを読む

○東美濃の妻木貞徳が、また報告してきた模様。家康の返事の手紙、九月八日付。●手紙一〇三号「たびたびの手紙、喜んでおります。それも、そちらの高山の城をあけたことについて、あなたの兵が移られたそうで、納得です。ますます油断のないようにするのが肝

続きを読む

○家康の出陣、および、この時期の状況について、確実な史料を見ておきましょう。『細川家史料』が収録している細川忠興の手紙で、日付は九月八日です。●細川忠興の手紙三号「去る一日の手紙を読んだ」「内府が御出馬だそうで、すぐに報せてきたことに満足だ

続きを読む

○まずは、この手紙から。九月三日に家康が書いたもので、京極高知宛て。●家康の京極高知宛て三日「御手紙を拝見。このたび濃州方面で、皆で話し合われて、岐阜城を即時に乗り崩されたこと、いさぎよいことです。特に、大津へ手紙を送られたそうで、念入りに

続きを読む

○時間が大きく戻りまして、八月八日付の手紙です。家康が書いたもので、宛名の石川貞清は、愛知県の北部にある犬山城主でした。●手紙五九号「先日に飛脚が到来した際、返事を書くべきだったのですが、飛脚がそのまま帰ってしまったので、それができませんで

続きを読む

○前回は「水攻め」に触れましたが、それについて書く前に、この手紙を見てもらいたいのです。石田三成の書いたもので、日付は九月二日です。●手紙九九号「このたび、あなたは計略を使い、地元の郷民を扇動し、敵の陣の背後を攻撃してください。勝利のときは

続きを読む

○家康が九月一日に書いた手紙は、まだあります。今度の宛先は真田信之です。●手紙九八号の一番「強く伝えます。それは、大垣に治部少輔、島津、備前中納言、小西摂津守がこもっているからです。ただちに取り巻き、水攻めにするでしょう。早速、出馬致しまし

続きを読む

○ここが始まりでした。同じ九月一日に家康が書いていて、宛先がかぶっているのに内容の違う手紙。偽書の混入を想定しなければ、絶対に起こらない現象。改めて確認します。まずは、宛名が福島正則と黒田長政の連名のもの。これを「福黒状」としましょうか。最

続きを読む

○いよいよ家康が西へ出陣することになるわけですが、その直前に書かれた手紙です。宛名は堀親良で、新潟の堀秀治の弟です。当時は、兄の領地の一部を譲られていて、新潟県長岡市のあたりを領有する蔵王堂城主。八月二十九日付。●手紙九五号「わざわざ伝えま

続きを読む

○栃木を離れて中仙道へ出たらしい徳川秀忠が、この時期に書いた手紙があります。日付は八月二十八日で、前線にいる黒田長政に宛てたもの。●手紙九四号「あれ以来、連絡しませんでしたので、手紙を書きました。というのは、これまで宇都宮にいて、境界地域の

続きを読む

○関ヶ原決戦で東軍が勝てた要因は、吉川広家の離反と、小早川秀秋の寝返りがあったからだ、とされています。「毛利の両川」吉川と小早川。毛利元就の息子たちが、それぞれの家を継承し、毛利本家を支える立場になったものですが、秀秋は小早川隆景の実子では

続きを読む

○「駆け引き」という言葉があります。「相手の出方を見ながら、強気に出てみたり、弱気に引いたりして、勝負的に交渉すること」って感じでしょうか。この言葉の語源は、「戦場で、前に駆けて進んだり、後ろに引いたりすることから来ている」とされています。

続きを読む

○織田信長の死後、清洲会議で羽柴秀吉が、織田家の当主に擁立した三法師。彼こそが岐阜城主の織田秀信です。次の手紙は八月二十三日に秀信が書いたもの。●手紙八〇号「このたびの籠城について、新座でありながら油断なく対応し、そのうえ前後の状況を見届け

続きを読む

○八月二十八日付、家康の手紙。宛名は、前線にいる藤堂高虎です。●手紙九二号「早くも報告、大変に喜ばしいです。このたび治部少輔が出てきたところに、一戦されて、ことごとく討ち果たされたことは、いさぎよいことであり、お手柄でもあります。来る一日に

続きを読む

○前線の豊臣軍団が美濃戦を開始して、「明日には岐阜城を取り囲む」と報告してきた「手紙七七号」が八月二十二日付。それに対して家康が返事を書いたとされる「手紙八三号」は二十五日付で、さすがに早すぎる感じ。二十六日付で返事を書いている「手紙八六号

続きを読む

○前線からの報告に、家康の書いた返事が、もう一通あります。池田輝政宛て。●手紙八六号「二十二日の御報告の手紙、今日二十六日の昼に届きました。あなたは川の前に布陣していたところ、一戦となって、数千人を討ち取って、岐阜まで追ったそうですね。まこ

続きを読む

○次の手紙は八月二十六日付。家康が伊達政宗に宛てたもの。●手紙八七号「濃州方面のこと、報告の手紙、お見せするために送ります。心地よいことですな。詳細は宗薫と村越茂助が伝えるでしょう」○「手紙七七号」井伊たち前線からの報告が来て、その返事と見

続きを読む

○日付が前後します。八月二十四日に、家康が浅野長政に宛てた手紙があります。●家康八月二十四日の手紙「わざわざ申し伝えます。中納言が信州方面に働きますので、あなたも大変でしょうが、御出陣になって、いろいろ御意見をお頼みします。それから、左京大

続きを読む