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2016年03月10日00:25

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関ヶ原史料「確実な史料」家康出陣

○家康の出陣、および、この時期の状況について、確実な史料を見ておきましょう。『細川家史料』が収録している細川忠興の手紙で、日付は九月八日です。

●細川忠興の手紙三号「去る一日の手紙を読んだ」「内府が御出馬だそうで、すぐに報せてきたことに満足だ」「岐阜の状況は、残らず終わっているので安心するように」「おまえだけ、内府の御命令で江戸へ帰されたそうで、まあ当然のことだな」「中納言殿は信州を通って御西進だそうで、こちらでも聞いている」「おまえに御名付けくださって、しかも御字までもくださったそうで、めでたいことだ」「津小平次と永右がとりなしてくださったとのことで、こちらからも御礼を申しておこう」「内府が御到着になり次第、ことごとく切り倒すだろうから、安心しているように。おまえを連れてきて、見せてやりたいと思うばかりだ。丹後はますます堅固であり、仕寄さえも仕掛けないままで、十町も離れて陣取りしているそうなので、気遣いは要らない」

○前に一部を触れた手紙です。西軍の丹後出兵は、毛利輝元たちが「田辺城に仕寄を命じている」と書いていながら、実は仕寄を仕掛けておらず、包囲布陣を続けているのみで、「これでは落ちるはずもないね」という話。その点で言えば、大垣城の包囲布陣に参加しているはずの細川忠興ですが、「大垣城に仕寄を仕掛けている」とは書いていないんですよね。そのうえで「家康が到着したら、ことごとくやっつけてやる。おまえに見せてやりたいよ」と書いています。大垣城の包囲戦に関して、これが重要なデータになるのですが、それはまたあとの機会に。

○息子のミツの手紙に対する返事ですが、宛名は「内記」となっています。第六文に「御名付けくださって、御字までくださった」とあるように、ミツは元服を許されて「名乗りを内記、実名を忠利」となったのです。父親が「忠興」で、長兄が「忠隆」ですから、ミツの名前も「忠○」となって当然のところ、秀忠に仕える立場であるため、主君の名にある「忠」の字は、使用を遠慮しなければならないのが慣例なのです。しかし「使って構わない」どころか、いっそ「秀忠から忠の字をもらった」ことにしてくれたわけですね。会津方面出陣に参加を許されなかったミツは、忠興に言われて「陣中見舞いをしながら秀忠軍のあとについていく」ことをした結果、叱られて、江戸に帰されたようですが、徳川の家来の津田直吉と永井直勝が「とりなしてくださった」ことによって、勝手な行動に対する処罰はなかったみたいです。ただし、家康の出陣にも連れていってもらえませんでした。ゆえにミツ改め忠利は、家康が江戸を出陣した一日に「それを父に報せる手紙」を書いたわけです。軍団を率いて動く家康よりも、手紙は先に到着していますけど、それでも忠興の手に届いたのは八日です。徳川家で手紙を送る場合は、船で伊豆を回って、箱根を迂回していると思われるので、もっと早くに着くのでしょうが、それでも四日や五日はかかるのではないでしょうか。

○一つ気になるのが、第五文の「中納言殿は信州を通って御西進」です。原文では「信州通御上」で、問題なのは「御上」の言葉なのです。普通は「京へ上る、関東へ下る」という言い方をしますので、「京都へ向けて進んでいる」とも訳せますし、単に「西へ進んだ」だけの意味にも訳せるのです。「中仙道を通って京都へ向かっている」と読むならば、定説どおりの解釈で「秀忠も大垣を目指している」ことになるわけですね。前に書いたように、「秀忠は、真田の処置のために中仙道へ出た」のが真相であっても、「家康は、一日に自分が出陣するとき、秀忠にも、大垣へ行くように連絡した」となるでしょう。一方、単純に「中仙道を西へ行った」の意味で読むことも可能で、その場合「秀忠は信州へ行っているので、大垣へは来ない」の報告となるわけです。対する忠興の返事は「こちらでも聞いている」なので、「信州へ出陣することを秀忠が報せた八月二十三日の手紙が届いている」というだけのことか、その後に「秀忠にも大垣へ行くように命じたことを、家康が報せてきた」のか、この記述だけでは判断できません。家康が九月一日以降に書いた手紙の中には、「私たち父子を御待ち」の「九七号」だとか、「父子とも出馬致しました」の「一〇一号」などがありますけど、それらの手紙は、ほかの記述内容から判断して、偽書と思われるものばかりです。忠興の書いた「この手紙」は「本物で間違いない原本からの翻刻史料」なので、もう少し判断材料のある言葉を書いてくれていたなら、と残念に思えてなりません。
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