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2016年04月18日15:54

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関ヶ原史料「直江兼続」地方情勢

○今度は東北に目を向けます。直江兼続の書いた手紙が、上杉家の家史『景勝公御年譜』に掲載されています。日付は九月十五日です。

●直江の手紙「去る十三日に、最上領の畑谷城を乗り崩し、殲滅を命じ、城主の江口五兵衛父子を含め、首を五百余り討ち取りました。簗沢城も退散です。すぐさま周辺に放火して、昨日十四日から最上の居城に向けて在陣しています。山形の近辺の城が五六ヵ所、これらも退散し、内の二三ヵ所は降参したので、あとの処置をしっかりと命じました。近日には手があきますでしょうから、御安心くださいますようにと、そのように御報告を願います」「追伸。この手紙を書いているうちにも敵が働きまして、ただちに乗り出し、敵の首を二百余りも討ち取ったと、飛脚が見てきたそうです。おいおい御報告致します。庄内の兵団は、白岩寒江斎が受け取りまして、在陣しております」

○宛名は秋山伊賀守です。本文の末尾に「御報告を願います」とあるので、秋山は「上杉景勝の側近」なのでしょう。すなわち、主君に宛てた披露状と見られます。ただ、その場合、一つ不審な点があるのです。冒頭の「去る十三日に、最上領の畑谷城を乗り崩し」の文章ですが、「敵は最上義光だ」ということぐらい、景勝も知っているはずではないですか。わざわざ「最上領」の言葉があるのは変ですね。もう一つ不思議な感じがするのは、「山形の近辺の城が五六ヵ所」の表記です。原文でも「五六箇所」で、これは絶対に「五十六ヵ所」とは読まないはずです。退散した城の数が「五ヵ所か六ヵ所ぐらい」と、正確な数字も把握していないというのは、どういうことなのでしょう。少し疑問です。

○山形市の市街地の西、十キロ以上のところに白鷹山があります。この山の北側に畑谷城があって、さらにその北東に簗沢城が位置しています。直江の領地である米沢市から、山形市へ向けて北東方向、国道一三号で上山市を通っていく道すじが羽州街道です。しかし畑谷城へ出たということは、一三号の西側にある国道二八七号で、長井市のほうを通り、白鷹山の西を回ったことになるでしょう。これは「ありえない話」ではありません。追伸に「庄内の兵団」とあって、おそらく出羽庄内「山形県酒田市」のことだと思われます。上杉家の飛び地領です。ここから来る兵団と合流するのなら、最上領の西から攻めることになって当然というものです。「畑谷城を乗り崩した」のも、ここでは問題のない範囲です。豊臣時代の平均的軍役数で計算すると、直江の軍勢は七千を超えているのに、畑谷城の防衛兵力は七百ぐらい。城の規模も小さいはずなので、十倍の兵力差があれば攻め落とすことも可能なんですね。すみやかに庄内軍と合流して、陣容を固めるためには、「畑谷城は落としてしまう」の戦略も、否定はできないのです。この結果、最前線となってしまった簗沢城が、退散したのも当然の行動ですね。小規模な城が個々に戦うよりも、本拠地である山形城に結集すべきだからです。ゆえに問題となるのは、畑谷城が降参しなかったことのほうです。城主の江口が降参退去を拒んだのか、寄せた直江が有無を言わせずに攻めたてたのか、手紙の記述だけではわかりません。あくまで推測ですが、江口は通常の感覚で「籠城して救援軍を待つ」判断をしたのかもしれません。けれども直江の立場で考える場合、通常の包囲布陣をする気だったら、正攻法で上山城を狙うはず。わざわざ西へ大回りした以上、「畑谷城が降参すればよし。籠城するなら、ここは落とす」と想定していたのかもしれません。そこに直江の戦略構想も見えてきそうな感じです。

○表記に疑問はあるものの、合戦については「明らかにおかしい状況がない」ので、やはり本物に思えます。面白いのは、『景勝公御年譜』が解説する「合戦の展開」と、手紙の記述が違うこと。『御年譜』では「畑谷城を落としたあと、近辺を放火し、翌日、軍勢を二手に分けて、一方は長谷堂城、もう一方は上山城を攻めた」と書いていますが、手紙では「最上の居城に向けて在陣」です。手紙の記述と解説文で、こういう食い違いも「珍しくない」のが『御年譜』なのですけどね。だからこそ『御年譜』の載せる手紙史料は、「編纂者が書き写すとき、勝手な修正をしていない」と思えるんですよね。ちなみに長谷堂城は、山形城の南西に六キロ強の位置で、定説解釈では、このあと直江軍が「長谷堂城をめぐる激しい攻防戦をした」ことになっています。しかも、たった六キロの距離にいる最上義光が、そこに参戦していないという話。それすなわち「支城を一つ一つ攻め落としてから、最後に本城を攻め落とし、敵の総大将を討ち取るのが合戦だ」と思っていることの表れですね。つまり「敵の総大将」はゲームのラスボスみたいなもので、家来がどれだけやられても「戦場には出てこないもの」と思っているわけでしょう。だから「長谷堂城に向けて布陣」する場合、「背後の山形城から義光に、救援の出陣をさせることが目的だ」とは思わないわけです。では逆に、手紙の書く「山形城に向けて在陣」が事実だと仮定してみれば、「直江は山形城に包囲をかけて、長谷堂城が、敵の救援軍の拠点基地となるように仕向けた」となるじゃないですか。すると「長谷堂城をめぐる戦いに義光が出てこなかったのは当然で、義光は山形城で籠城していたのだ」となるわけですね。よって「義光は出陣しなかった」が事実なら、手紙のほうが「本物の記述だ」となるんです。
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