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2016年03月28日02:40

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関ヶ原史料「吉川問題を解く鍵」決戦前八二号

○定説解釈において、南宮山に布陣した吉川広家は、関ヶ原決戦にも参加しなかった、とされています。しかし、そもそも吉川軍が「南宮山にいたのかどうか」も、実ははっきりとしていませんし、「裏切り工作の根拠」とされてきた手紙史料の内容は、定説で言うのとは文意が違っていたわけです。ただし、「吉川軍が決戦に参加しなかった」という点では同じ結果です。それが「裏切り工作のせいではない」のならば、なおさら「謎」となりますよね。その謎を解く鍵となりそうな手紙があるのです。時間が戻って八月二十五日付。宛名は長束正家、増田長盛、石田三成、前田玄以、毛利輝元、宇喜多秀家の五人連名。いわゆる「大坂の最高司令官たち」であり、書いたのは上杉景勝です。

●手紙八二号「太閤様の御不慮以来、内府は掟に背き、上巻の誓詞に違反し、好き勝手な政治をしたため、各人が話し合われて、掟を守られ、秀頼様に御馳走することは、とても重要なことだと思います」「日本国の諸侍の妻子を、人質として大坂に拘束なさったことで、無二の忠信の覚悟をするだろうとのこと、納得です。ますます堅固に引き締めるだろうこと、推量致します」「伏見の城は、在番の関東勢を、早速に命じられて、鳥居彦右衛門らをことごとく討ち果たされたそうで、まさに天罰は漏らさないものだと思います」「羽柴越中は、いろいろと違反があったので、丹後を没収し、一国制圧を命じられたそうですが、めでたく思います」「こちらのこと、おっしゃるように、先月二十一日に内府は江戸を出られましたので、二十六七日ごろ白河へ進もうと決めていたところ、上方の事変に動転して全部が敗走しました。今月四日に小山から江戸へ戻られました。すぐにも関東方面へ出るべきだったのですが、最上と政宗を見れば不穏なようすがありましたので、厳しく命じ、奥を済ませてから、関東を一つやってやろうというつもりです。今は正直、関東のほうで企みがあって、奥で蜂起することがあれば、何かと慌ただしいことになりそうなので、前記のとおりです。ただし、内府が上洛を決めたなら、佐竹と相談し、ほかのことは投げうって関東に乱入する支度、油断はありませんので御安心ください」「南部、仙北、由利中の者たちは、秀頼様に御奉公を申しあげたいと、こちらへ使者をよこしています」「越後のこと、江戸に人質を出して、絶対に内府の味方であるようすなので、一揆などを命じ、少しは兵団も送り、討ち果たしてやろうと思っていたところ、秀頼様へ絶対の忠節で、しかも越中へ働くことなど命じられているそうなので、羽久太へも連絡を取るように申し伝えました。一揆なども鎮まりました。溝口と村上の二人は前から別状ありません」「こちら方面のことは、ずいぶんしっかりと命じますので、御安心ください。各方面を命じていますので、すぐさま関東へ出られませんでしたが、その気は充分です。来月中には佐竹と相談して、ぜひとも手段を取るつもりです。なお、こちらの処置は、最上も政宗も、御指図どおりにするつもりです」

○この手紙のポイントは、「手紙を読みました」の言葉こそありませんが、紛れもなく「大坂の五人」から来た手紙に「返事を書いたもの」だということです。第一文から第四文までは「もらった手紙に書いてあった内容を、わざわざ繰り返して書く」基本的な「返事の手紙の形式」です。しかも、こういう書き方をするときは、その内容について「手紙を読んだことで初めて知った」場合が普通なんです。つまり、家康が掟に背いたこと、大名の妻子を人質に押さえたこと、伏見城の留守部隊を討ち果たしたこと、羽柴越中守細川忠興の領国を制圧すること、これら四つの項目を「手紙で知って、納得した」と言っているんです。定説解釈では、石田三成が挙兵した最初に「家康を弾劾する檄文を各地に送った」ことになっていますし、どころか「石田と直江兼続は事前に共謀していた」という話にさえなっていたわけです。でも、この手紙によれば「景勝は、大坂が家康との戦争を決断したことを、伏見城が落ちたあとに書かれた手紙が届いたことで、八月二十五日ごろに初めて知った」となってしまうんです。これは本物でしょうか?

○いくつかの疑問点があります。まず、第五文の最後に「関東に乱入する支度」の言葉があること。原文では「関東乱入之支度」ですが、ここで言う「乱入」とは、単に「攻め込む」の意味にしか見えないことです。「威嚇するだけで引きあげる」からこそ、「てんでに乱れ入る」の言葉になるのであって、本気で侵攻する場合は「戦略的に効果的な布陣を整然と取る」ものです。「乱入」を「攻め込む」の意味で使うのは、戦略も戦術もない偽書史料の可能性が大です。さらに第七文では「越後のこと」が書かれていて、羽柴久太郎堀秀治が「実は大坂の味方だと知ったので、攻撃をやめた」と言っていること。しかも文中にある「羽久太には越中へ働くことを命じた」の情報は、偽書でしかない「石田三成の書いた手紙」のうち「五八号の二番」真田宛て、「六〇号」佐竹宛てにのみ書かれている内容なんですよね。ちなみに「六〇号」は上杉関連の軍記物語からの採録で、それを参考にして偽造したと思われる「五八号の二番」は、真田関連の軍記物語からの採録。そして、こちらの八二号は、上杉景勝の手紙でありながら、なぜか真田家の史料から採録されているうえに、上杉家の家史には収録されていないのです。これらの点から、八二号は「偽書の疑いが濃厚だ」と言わざるをえないわけです。「景勝が事情を何も知らなかった」というのは、定説においても納得しがたい話だろうと思いますしね。とはいえ、それでもなお八二号は、無視できない史料なのですよ。だって「後世に定説化したストーリー」と合わないじゃないですか。それどころか、石田が挙兵時に送った檄文はなく、八月に入って伏見城を落としてから「家康と戦います」の報告を大坂が発した、というのは「今までここで見てきた本物の史料理解」のほうと合致するものです。江戸時代のごく初期のころ「本物の一部を加筆修正してしまった偽書」の可能性が高く、すなわち第五文や第七文は「あとから挿入された記述」であって、全体としては本物である可能性があるってことです。もしも本当にそうであれば、実に「とんでもない内容を記す貴重な史料」じゃないですか。そしてこのことが、吉川問題を考えるうえでも重要なデータをもたらすのです。次回に、そこを詰めていこうと思います。
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