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2018年10月30日00:22

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本史関ヶ原135「合戦とは守ること」

○「ゲーム理論」というのがあります。一種の「論理的思考実験」の手法で、十年以上前に流行しました。文系でも経済学や心理学が採り入れていましたけど、今はどうなんでしょうか。大学の非常勤講師をやめてから、教育事情にはうといんです。ちなみに文学では当時も採用しませんでした。文学に「論理的理解」はないんですよ。だからきっと、二千年ほど昔の「孫子竹簡本」の記述が「ゲーム理論」で理解可能だとは、知るよしもないでしょう。無論「ゲーム理論」でわかるのは初歩的な理解にすぎませんが、それでも合戦の理解は大きく変わってきます。少なくとも「今まで信じてきた世界」が揺らいできます。そのうえで古文読解の訓練をして、実際の史料を古文で読むと、いろいろ気づくことになるんです。

○関東側の先鋒軍を率いていた井伊直政、本多忠勝、福島正則。彼らと事前に打合せをしたわけでもないのに、小早川秀秋は「山中へ陣替え」という「仕掛け」に出たことになりますし、すると先鋒軍のほうでも「それを受けて仕掛けた」ことになります。互いに「相手を信じた」わけですね。秀秋は「この行動の意図も理解してもらえる」と信じたからだし、先鋒軍も「だいじょうぶだ。秀秋は味方だ」と信じたからこその展開です。そこで問題になるのが、先鋒軍のほうで「この決断を誰がしたのか?」という点なんです。もっとハッキリ言えば、井伊も本多も福島も「あくまで先陣を務めた」のみで、家康の本隊が関ヶ原へ進出していたのかどうかです。これに関しては「史料もない」ために、解答は出せないのですが、家康が指揮をとっていたのなら、もっと安全策をとったように思えてならないんです。秀秋を信じるにしても、性急な決着を狙わなかったのではないかと。

○どうしても「合戦」とは、「勝つために犠牲をいとわない」とか「命がけで戦うもの」とかってイメージが世間にあるわけですよ。たとえば、秀吉の手柄で有名な「金ヶ崎の退口」ですが、太田牛一の記録『信長公記』には、次のような記述があるんです。原文で写しますと「天筒山へ御取懸け候。彼城高山にて、東南峨々(がが)と聳(そび)へたり。然(しかり)といへども、頻(しき)りに攻入るべきの旨御下知の間、既に一命を軽(かろん)じ、粉骨の御忠節を励(はげま)せられ、程なく攻入り、頸数(くびかず)千三百七十討捕」です。天筒山という山の上に城があって、東南は崖になっていて、それでも「攻め込め」の号令で、命を捨ててでも忠節を示すように信長が言うので、ほどなく攻め込み、千三百七十も首を討ち取った、という記述。まさに世間のイメージどおりの合戦です。

○ところが、もっと有名な「長篠合戦」では、牛一が「こんなこと」を書いています。これも原文で写しますと「今度間近く寄合(よせあわ)せ候事、天の与る所に候間、悉く討果さるべきの旨、信長御思案を廻(めぐ)らされ、御身方一人も破損せざるの様に御賢意を加へられ」です。敵は「ことごとく討ち果たしてやるつもり」で、その思案をめぐらした信長だけど、味方のほうは「一人も死なせないための考慮もなさった」ってわけ。この記述をどう考えるべきでしょうか?

○単純に「牛一が事実を書いている」とするならば、「金ヶ崎の退口」があった元亀年間の信長は、平気で「とにかく攻め込め」の合戦をやっていたことになります。しかし「長篠合戦」のあった天正年間に入ると、「敵は殺すが、味方は誰も死なせない」という方法に「考え方が変わった」ことになるわけですよ。ならば「長篠以降の信長」は、もはや「味方の兵がいくら死んでも構わない」ような合戦など「やってない」ことになりますし、だったら当然のこと、関ヶ原合戦の時代ともなれば、そんな古くさい「攻め込め合戦」なんてもの、まともな戦国大名なら「誰もやってない」ことになるじゃないですか。では、その反対に「牛一も嘘を書く」とした場合、じゃあ嘘の記述は「味方が死んでもいいから攻めろ」なのか、それとも「味方を死なせない」のほうなのか、どっちなんでしょうか?

○『信長公記』は実際の体験記録ではありますが、牛一が晩年に書いた「思い出し記録」ですので、本当の意味でのリアルタイム史料ではありません。その点、リアルタイムの手紙史料としては、『細川家史料』に所載の「島原戦争における忠興と忠利の往復書簡」があります。すでに江戸時代に入っている「寛永年間の合戦」なうえに、当の忠興は「関ヶ原合戦の参戦経験がある」のみならず、信長時代の「天正年間の合戦」を経験しているんです。しかも「大坂冬の陣しか経験のない忠利」に、親として「合戦の説明をしてあげている」手紙なんです。そのうえ忠興は「筆まめで手紙好き」なので、息子に宛てた手紙は、右筆に任せないで「自分で書く」のも普通です。だから本音すらも書いちゃう手紙なんですよ?

○結論だけを言えば、そもそも「合戦」とは「味方を守ること」です。「ゲーム理論」で考えても、その傾向になります。私のシミュレーション解析でもそうなりました。そして『信長公記』にも、まさに「そういう記述」が散見されるんです。忠興の手紙でも「そういう意味」が書かれているんです。けれども「敵を攻めること」だけでしか考えない人は、味方を守ることが「絶対」という認識がないことで、味方に「守ってもらえる」という信頼感がないわけで、だから「味方のことを信じられない」んでしょうね。ゆえに「合戦の理解」が違うんですよ。

○ちなみに、牛一の書いた「天筒山城の攻城戦」は、信長の手紙史料および公家の日記史料とは、内容が一致しませんでした。実際には「疋田城の包囲戦」だったんです。牛一は、自分が参戦して「実際に見聞したこと」ならば、ほぼ正確に書いていますけど、参戦していない合戦は、あとで「仲間に聞いた話」を元に、自分なりの解釈で創作しちゃうんです。途端に「攻め込め合戦」の話にしちゃうんです。牛一は関ヶ原合戦の記録も書いていますが、年齢的に参戦しているはずもないので、残念ながら「内容に信頼性はない」です。結局「島原戦争の細川家往復書簡」が世間に知られない限り、合戦の理解は、いつまで経っても「歴史小説で定着している展開」のままなんでしょうね。関ヶ原合戦にしても「家康が最前線で指揮をとっていたなら、もっと確実な安全策をとったのでは?」という私の理解は、誰も信じないんでしょう。無論「史料がない」ので確定できませんが。
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