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2018年10月18日01:14

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本史関ヶ原132「クライマックスのとき」

○前回に触れた「濃霧」について、先に片づけておきましょう。決戦当日の十五日は、夜明けすぎまで「関ヶ原は濃霧だった」という説ですが、私の作ってきた展開には関係ありません。その時分なら、まだ関東側も「長良川か、揖斐川を渡っている頃合い」ですからね。なんらかの「確実な史料」があったとしても、合戦に影響なし。ところで、天候に関する「確実な」史料なんて、ありうるんですかね?「公家の日記」には天候の記述もありますけど、京都の天気ですもん。

○さて。展開は大きく変わってしまいました。石田と小西が、先に「山中」へ陣替えしています。秀秋は十四日と十五日で、布陣する位置が違っていて、あとから「山中」へ陣替えです。そして十五日の午前中「まだ陽の高くない内」に、関東側の先鋒軍が中仙道で関ヶ原へ入ってきます。ここで関東側は「状況の相違」を知るわけです。前日の十四日、誓詞で「寝返り」を確認したはずの小早川軍。だからこそ「もはや関ヶ原での戦闘はない」と想定していたのに、ちゃっかりと秀秋は「敵対する位置」に布陣していたわけですね。この状況を見れば、誰だって「秀秋め。約束を破ったな」と思うほうが普通でしょう。ということは、これ以上に「先へ進む」と、先鋒軍は「敵の総追撃をくらいかねない」危険な間合いへ入ってしまうことになりそうです。ならば関東側は、どう判断するべきです?

○ここの展開は「変えられない設定」で「先に決まっている」わけですよね。つまり「最終的に戦闘衝突になった」です。よって先鋒軍は、想定外の状況を見ても「進軍を停めなかった」ことになります。「まだ下がれる距離」で停まらないどころか、さらに進んで「対抗布陣の位置をとった」ことになるわけです。加えて「合戦の条件」が決まっています。大坂側は「防衛に徹しているだけで、自分からは攻めてこない」です。ゆえに先鋒軍のほうで「戦闘を選択した」ことになります。すなわち先鋒軍は、大坂側の陣地へ接近して「攻撃を仕掛けた」ことになるんです。すると「結果的」に「大坂側が追撃し、その背中を秀秋が突いたので、関東側の勝利」です。では、なぜ先鋒軍は「戦闘を選択した」のでしょう?

○「秀秋が味方してくれると思ったから、敵の追撃を誘った」か。それとも「攻め損なって崩れて、逃げるハメになったら、秀秋が助けてくれた」のか。「攻める合戦」なら「攻め損なった」で決まりでしょうが、「攻めない合戦」で見る以上、どちらの可能性もあります。とはいえ「追撃を誘った」のほうを、本当に考えることができるでしょうか。だって関東側は「秀秋の陣替え」を見て、「約束を破った」と思うのが普通のはず。それでどうして「秀秋が味方してくれる」と思うんでしょうか。でしたら関東側は「秀秋をあてにしたのがバカだった。こうなったら自分たちの力で勝ってやるぜ」と考えて、攻撃手段に出たのでしょうかね。無論その場合、先鋒軍の武将たちは全員「手詰まりになると攻めちゃう二世大名」になってしまいますけどね。ただし「家康は関ヶ原へ出ていなかった」となりそうで、データの上では「可能性はゼロではない」と言えそうでしょう?

○しかし「答え」は「あえて攻撃を仕掛け、逃げると見せて追撃を誘った」なんですよね。なぜなら「敵は常に追撃してくるとは限らない」からです。「こちらとしては、敵に追撃してほしい」と思って、わざと退却して追撃を誘えば「都合よく敵が追撃してくれる」なんていうのは「フィクション」なんですよ。結果的に「大坂側が追撃をした」からと言って、関東側の誘いに「引っかかった」わけではないんです。だからこそ『孫子』は「まず勝つべからざるをなして、以て敵の勝つべきを待つ」と言うんです。さらに続けて「敵をして勝つべからしむること能(あた)わず。故にいわく、勝つは知るべし、しかしてなすべからず」と言うんです。要は「敵に追撃させたい」と思っても、こちらの思いどおりに敵が動いてくれるわけがない。敵が追撃してくるときは、敵のほうで「追撃したいと思っているとき」ってこと。すなわち「敵のほうで、追撃すれば勝つと思っているとき」であり、つまりは「勝つべきは敵にあり」のとき。だから「彼を知る」なんです。「彼を知り、己れを知れば、百戦して危うからず」とは、石田が追撃したがっているという「彼の勝つべきを知った」うえ、そのとき秀秋が味方してくれるという「己れの勝てる状況を知った」ならば、戦っても「危うくない」という意味なんです。そして『孫子』は「善(よ)く敵を動かす者は、これに形すれば敵は必ずこれに従い、これに予(あた)うれば敵は必ずこれを取る」と言います。こちらの思いどおりに「敵が動いてくれる」はずもないので、敵の意図を読み取って、敵が動きたいと思っている方向で誘ってやれば「敵は動く」ってことです。よって「結果的に大坂側が追撃した」のなら、追撃したかったのは「大坂側だった」ということで、それを見抜いた関東側が「追撃させてやった」わけ。

●七七号8月22日「差出」井伊直政、本多忠勝「宛」不明(披露状)

○『孫子』を理解できない人は、常に「自分がこうすると、敵はこうなる」というふうに、自分の都合で「敵の行動を決めつける」んですよ。反対に「敵がこうすると想定し、自分はこう対応する」と、常に「受け身」で考える必要があるんです。岐阜戦の手紙史料が典型的な例。七七号には「若大坂より後詰の加勢出候はば、岐阜を押置、其後詰の勢を喰留、大垣を付入に乗崩可申」の記述。明白な仮定文「若し〜候はば」で敵の行動を想定していて、そのとき自分たちは「〜申すべく」で「こうするつもり」の対応想定です。一方の『徳川家康文書の研究』に所載「井伊の岐阜戦報告」では「今日赤坂辺迄も押申候者、大方佐和山へにげ入可申」と書いて、「こちらが赤坂まで押し込んでいれば、おそらく(石田は)佐和山へ逃げたことでしょう」です。だから「この手紙」は「攻める合戦」でしかないわけです。同じく「井伊直政」が書いていて、片方は「基本的な理解がない」なんて、そんなことあるはずもないから、こっちの手紙は偽造史料なんです。

○では、話を戻しますが、とはいえ関東側は「秀秋が味方してくれる」と、どうして判断できたのでしょうか。状況の「見た目」では正反対。「関ヶ原では戦闘もなく勝てるはずだった」のが、秀秋は「敵対行動」をとっているんですからね。
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