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2018年10月02日01:12

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本史関ヶ原128「家康は出陣せず?」

○「本物の手紙史料だけで読み解く関ヶ原合戦」として解析したデータで、確定しうる「変えられない設定」はわずかです。しかも大坂側の史料はないので、関東側の行動展開を「先に固定する」しかありません。十二日は清洲城にいた徳川家康が、十三日に岐阜城へ移動して、十四日に井伊直政と本多忠勝が「小早川家への誓詞」を書いて、十五日に「山中で決戦衝突」です。この基本展開を前提にすると、小早川秀秋が「松尾山の東へ移動した」のは十三日の朝にならざるをえないでしょう。もしも「十二日の朝」だったなら、その日のうちに家康が「清洲で事態を知った」可能性が高いです。その場合「家康が岐阜へ移動するべき必要性があった」としても、翌十四日には「関ヶ原への進出」が始まったのではないでしょうか。あえて一日を無駄にする必然性が、私には「見えない」んです。

●一〇八号9月14日「差出」井伊直政、本多忠勝「宛」稲葉正成、平岡頼勝

○秀秋の移動が十三日の朝で、午後の遅い時間には「家康が岐阜で報告を受けている」という推測は、前に書いたことです。しかし誓詞一〇八号の日付は十四日です。決戦衝突の日が十五日ですので、小早川軍に届けられたのは十四日中であるはずです。ここに疑問が生じませんかね?「使者が岐阜城を出発したのは、十四日の朝だとしても、誓詞の日付が、なぜ十四日なのだろう?」という点に。

○考えられる可能性は二つ。「家康の決断が十四日の朝だった」と「十三日の晩に家康が決断し、十四日の朝になって井伊たちが誓詞を書いた」ですね。だから私は「家康の書いた秀秋宛ての誓詞があったかも」と言ったんです。家康が誓詞を書いたのが十三日で、井伊たちが家来宛てに書いたのが十四日。そういう可能性も考えられるわけです。その場合「家康は岐阜にいた」でしょうが、井伊と本多は別の場所にいた可能性もあるでしょう。すると今度は別の疑問が生じるんです。たとえば「家康が十二日に報告を受けた」と仮定してみましょう。先に来ていた井伊と本多が「清洲の留守番に残る」可能性は低いので、家康のそばにいた別の者が誓詞を書くことになりそうじゃないですか。それをあえて「井伊と本多の誓詞」とした理由があるのなら、前線にいる井伊と本多に指令を届け、誓詞を書かせ、それから軍使が橋爪経由で「松尾山へ向かった」ことになりますね?

○こういう想定をした場合でも、秀秋の移動が十二日ならば「井伊と本多が誓詞を書いたのは十三日」となりそうです。よって「秀秋が移動した日」は十三日と見るべきでしょうね。つまり誓詞一〇八号が確かに本物だとしても、日付が十四日であること、差出人が井伊と本多であること、この二点において「意味を考えてみる」必要があるってことなんです。日付のほうは「秀秋の行動」と関連し、秀秋の移動日を推定する史料になりますが、問題は差出人のほうです。家康の側近には本多正純などもいるはずが、なぜ「井伊と本多忠勝の誓詞」だったのか。

○私はこれを「井伊と本多が前線の指揮権を持っていたからではないか」と考えるんです。秀頼の代行者として「日本の軍事権」を持つ家康が、今や前線に出てきているとしても、井伊と本多を先行させて「開戦」した以上、二人に与えた権限は「今なお有効である」ということ。だから「小早川家に出す誓詞」は「井伊と本多でなければならなかった」という推測です。この点を考えると、井伊と本多は「大垣包囲」で最前線に出ていた可能性が高いですね。それもたぶん相川に。

○そして井伊と本多は「関ヶ原へ進出した」でしょう。その分の兵力が「相川から減る」わけですから、代わりの者が出てきたでしょう。以前に「福島正則は、あらゆる状況に対応するべく、岐阜の後詰めに残っていたのではないか」と書きました。この場合「敵地へ進攻する」先鋒軍となりますので、福島も出たのだろうと思われます。さらに「井伊の娘婿」である松平忠吉も、先鋒軍に参加したのだろうと推測します。だとすれば、家康が出る必要は特に「ない」んですよね。指揮権は井伊と本多が持っているし、家康の代理人としては「息子の忠吉」がいるのだし、そのうえ「戦闘が想定されていない」わけですよ。小早川家に誓詞を送って、その返事が戻っているはずで、すると「後詰めのはずの小早川軍が、敵対しないで通してくれる」のですから、石田らは「退却せざるをえない」わけで。

○『孫子』は「戦わずに勝つ」です。そしてこれも前に書いた言葉「勝兵は、まず勝ちて、しかるのちに戦いを求め、敗兵は、まず戦いて、しかるのちに勝ちを求む」です。関ヶ原へ進出した関東側は、小早川家と「誓詞を取り交わした」ことによって「すでに勝っている」んですよ。もはや関ヶ原での戦闘は「ない」からこそ「進出する」のであって、「進出してから、戦って勝利する」んじゃないわけ。だとすれば、ここで「小早川軍が動かない」ことが「勝利を決定づける」んですから、ゆえに私は「手紙が現存していないだけで、小早川家も誓詞を返しているのではないか」と判断したんです。だったら家康の出る幕あります?

○定着している展開は「これから関ヶ原で、これから戦闘する」ですよね。ちなみに一〇八号には「敵対しないでくれ」と「もしも味方してくれたら」の「二つのことが書いてある」と言いましたが、「味方してくれたら」の原文は「御忠節相究候は、於上方両国之墨付、秀秋江取候而可進候事」です。私は「もしも〜してくれたら」と意訳しましたけど、実際の原文は「若し〜候はば」という「仮定文」になっていないんです。すなわち「敵対しなければ処分しないよ。参陣すれば加増もするよ」と言っているだけの意味なわけ。だって「秀秋が素通りさせてくれた」ら、それでもう関東側は勝利なんですから、そのあとで秀秋が味方になって、参陣するもしないも、どうでもいいじゃないですか。つまり、関東側が前に出て、秀秋が後ろになって、石田らが逃げ去ったあとに、「そのまま引きあげてもいいし、佐和山討伐に参加してもいい」という「お誘い」程度。それを「これから関ヶ原決戦」という「前提での解釈」をしてきちゃったわけですね?

○さて。大坂側で見ていくと「秀秋の山中陣替え」時点で、大坂側の敗北が決まっていたわけです。ところが関東側で見てみると、実は「小早川家の誓詞」で勝利が決まっていたんです。この「ズレ」が、結果的に戦闘を起こしたんですよ。
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