mixiユーザー(id:63255256)

2018年10月10日01:04

168 view

本史関ヶ原130「裏切りの裏切り?」

○関ヶ原合戦の「定着している展開」は、「徳川家康が十四日に赤坂へ着陣。夜半に関ヶ原への移動を開始して、十五日の早暁から戦闘の開始」というものですね。しかし前回に「家康の赤坂着陣は十五日」としました。夜明け前には岐阜城を出発し、ちょうど夜明けのころに長良川を渡るようにして、さらに揖斐川を渡って、赤坂に着陣したのは朝の早いうち。これで吉川広家は「徳川軍の存在を知った」ことになりますが、吉川たちが次の行動に出るより前に、関東側は一気に動くわけです。おそらく家康と一緒に出てきた福島正則と松平忠吉は、さらに中仙道を西進です。こういう手順で考えれば、関ヶ原で「早朝から一進一退の攻防戦」など起こりえません。どうしたって「昼ごろの衝突」になりますでしょう?

●一〇九号9月15日「差出」徳川家康「宛」伊達政宗

○家康の「勝利報告」一〇九号の記述は「今十五日午刻、於濃州山中及一戦、備前中納言、島津、小西、石治部人衆悉討捕候」です。文頭の「十五日午刻」は、文末の「悉討捕候」にかかるのが通常の理解で、その意味では「昼ごろに勝敗が決着」となりまして、「山中で一戦に及んだのが午刻」という意味にはならないでしょう。けれども「一戦に及ぶ」は乱戦を意味しないんです。普通は「合戦の始まりの仕掛け」のことです。弓矢の時代には「矢合わせ」と言いました。これが始まって、あとは「悉討捕」しか書いてないので、このあいだが省略されちゃうほど「何もない」ってこと。だから、この書き方だと「仕掛けたら、一気に決着した」のはずなんですよ。ゆえに「決着が午刻」なら「正午をメドに仕掛けの開始」と見るべきなんですね。そもそも戦国時代に時計があるはずもないので、午前中に移動で、午後の決着なら、仕掛けの開始は「正午が合図」が通例です。

○文章読解というものは、常に「文面に書いてないことを常識で理解する」というのが、文学における基礎理解です。だから合戦を「互いに陣地を飛び出していき、白兵乱戦をするもの」という解釈で「常識になっている人」は、文中の「一戦に及ぶ」と「悉く討っ捕り」のあいだを「乱戦衝突」で埋めてしまうんです。実際には「返す返す戦いて」などの「乱戦を想起させる言葉」の類は、どこにもないんですけどね。けれど自分では「常識で理解している」と思っているからこそ「正しく読んでいるつもり」なんです。しかし「文面に書いてないことは常識で理解するべき」であるならば、本当の常識は「腹がへったら飯を食う」じゃないですか。文中のどこにも「いつ食事をとった」とかは「書いてない」ですけども、書いてないと「飯を食わなかった」ことになるんですか?「乱戦」は書いてないのに勝手に加えておいて、「食事休憩」は書いてないから無視している。それが「定説化している解釈」です。非常識が常識になって、現実的な常識が抜けているんです。「正午を合図に合戦を仕掛ける」場合、その前に食事をしているはずだし、どうせ敵は「陣地にいて防衛するだけ」で攻めてきません。敵のほうでも「相手が仕掛けてくるのは昼だ」と考えて、事前に食事をしていることでしょう。両軍ともに兵は数千人もいるんですから、それが「一斉に飯を食う」はずもなくて、敵を警戒する組と、下がって休む組と、交代していると思いません?

○実のところ、ここで考えるべき問題の第一は、関ヶ原へ進出する関東側が、荷駄兵を引き連れていったのか、それとも各自が弁当を持っていただけなのか、この点なんです。これによって「行軍速度が違う」ことを以前に書きました。石田三成の想定どおり、関東側が「丹後救援のために西へ行きたい」から進出してきたのであれば、通常は「荷駄兵も含めた進軍態勢」のはずですが、今まで書いてきたように、関東側は「関ヶ原での戦闘はないものと見ている」のであれば、まずは「石田たちを退却させてしまう」ことだけが目的なので、荷駄兵は「あとからでもいい」んです。この問題は、ちょっとややこしいので、今は保留にしておきましょう。すると次の問題は、関東側の「想定」が、結果的に違っていたこと。

○状況を確認しますよ?「関東側が関ヶ原へ進出した」のは、事前に「小早川家と誓詞を交わした」ので、関ヶ原での戦闘衝突は「ない」と想定したから。誓詞を交わしたのは十四日で、そのとき小早川軍は「松尾山の東の尾根」にいたわけですよね?「関東側が出てくる」と、それを「素通りさせてくれる」約束。すると「事態に驚いた石田たち」は「佐和山へ下がるしかなくなる」わけです。だって「橋爪のほうから多良を抜けて高宮へ出る道」は、塞いでいた小早川軍が「前線に出てきちゃった」からガラ空きで、しかも小早川軍は「松尾山の東」にいながらも、敵の進攻を食い止めないんです。石田たちが山中で対陣を続ければ、裏に兵を回されて「佐和山からの補給路」が絶たれます。石田は退却するしかないんです。ところが十五日に関東側が「関ヶ原へ出てみる」と、小早川軍は「松尾山の西部」に移動していて、石田たちと一緒に「布陣している」わけでしょう?

○すでに「基本の展開」は書きましたよね?「仕掛けてきた関東側が、北東方向に下がったとき、大坂側は北へ向かって追撃してしまったがため、南の松尾山にいた小早川秀秋に、背中を討たれてしまった」という展開になるはず。すなわち秀秋は、確かに「関東側へ味方してくれた」わけですし、秀秋の最終的な「寝返り行動」があったからこそ、関ヶ原合戦は、家康が手紙に「悉討捕候」と書くほどの状況で「決着した」ことになるはずです。けれどもそれは「結果論」ってものでしょう?「十五日に関ヶ原へ出てきた」時点で、井伊直政や福島正則が、どうして「これから先に起こる」未来の展開を知っているんですか?「作者は結果を知っていても、キャラは未来を知らない」という前提で考えれば、誓詞を交わした時点で「松尾山の東」にいた秀秋が、ちゃっかり山中に陣替えして、石田らに交ざって「防衛布陣の態勢をとっている」のを、目の当たりにするんですよ?

○ほら?「寝返る約束だった秀秋」が、約束を守らない?

○不思議なことに「定着している展開」と似てきちゃいましたねえ。これを「午前中は大坂側で布陣したまま、松尾山で動かない秀秋」というふうに文章化すれば、まるで「定説化している解釈」をそのまま語っているかのようですよね?
1 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する