76年6月16日決戦10日前、モハメド・アリがついに来日。東京国際空港(羽田)に降り立ったアリはマネージャーのフレッド・ブラッシーと共に報道陣の前に姿を現し拳をあげて威嚇しながら登場。
試合の為に来日したのは72年9月1日日本武道館でのマックス・フォスター戦(この時は世界ヘビー級王座から転落していて無冠、ノンタイトル戦でアリの判定勝ち)以来のことです。
相手が日本人プロレスラー、アントニオ猪木とあってヒールに徹しているアリのパフォーマンスは憎々しげであり、そのあたりのクレバーさも並のボクサーとは違い過ぎました。
空港のVIPルームで会見に臨んだアリは両手の指を8本突き出し、「8ラウンドだ、8ラウンドまでに猪木をKOする」とアピールしています。
本当にアリが新日本プロレスの招きで日本のリングに登場し、関係者は一安心といったところでしょう。
アリの600万ドル超と言われる破格のファイトマネーを捻出するにあたり、新間寿営業本部長は資金調達に奔走、試合を放送するNET(テレビ朝日)は勿論、関係各位に頭を下げて回りました。
東京スポーツ新聞社取締役だった桜井康雄氏が2017年に亡くなられた際、新間氏は「あの時(アリ戦)は桜井さんが自分の退職金を担保に東スポと掛け合ってくれて3,000万円を東スポから出して頂いた。桜井さんのご尽力がなければアリ戦は実現しなかった。」
当時の東スポは73年に訪れたオイルショックの影響による紙の高騰の影響もあり、まだまだ財政事情が裕福とは言えませんでした。
社屋も東京都中央区築地3丁目の日刊スポーツ新聞社の本社ビルを間借りしていました。
社を上げてアリvs猪木戦を後援していた東スポの井上博社長は大会の主催者に名を連ねることで3,000万円を新日本プロレスに対して拠出する英断を下しました。
チケット料金の価格設定もまさに別格で、ロイヤルシート(プレイガイドでの発売なし)が300,000円、特別リングサイドが100,000円、一番安い2階指定席Dが5,000円と庶民には手が届き辛い金額でした。
試合はアメリカにおけるクローズド・サーキット(有料による衛星生中継)の行われる現地時間の6月25日夜に合わせて行われる為、日本時間の6月26日土曜日、午前10時30分に前座試合開始、メインイベントのアリvs猪木戦は午前11時50分開始予定。
当時は週休2日制というのはまだまだ浸透しておらず、土曜日は「半ドン」と言われて学生、会社員共に昼までは授業、仕事が普通に行われていました。
当時中学校1年生だった私は何とかこの試合を会場で観戦致したく、5,000円の一番安い席のチケットを買って欲しい、と父親にねだりましたが、
「5,000円なんてとんでもない、学校はどうするんだ!?」
と聞かれ「休む」と言ったら激怒され、「学校へはちゃんと行け!テレビで見なさい、武道館なんて2階の上からなんて小さくて何やってるかわからない。」と拒絶されました。
私の初プロレス観戦はこの後の同年8月5日、蔵前国技館でのアジア・リーグ戦最終戦でしたから、夏休みだったのと、この時アリvs猪木戦を見たい、と言って断ったことの影響も多少はあったか、小中学生無料の興行でしたが、父親は鳩居堂プレイガイドで2,000円のチケットを買ってきてくれました。
モハメド・アリは猪木との試合を筋書きのあるフィックスファイトと認識していましたが、猪木側はアリが来日した際にこの試合は真剣勝負だと主張したとのことです。
アリは「打ち合わせはいつやるんだ」と聞いたところ新間は「これは打ち合わせなしの真剣勝負である」と告げ、アリ側は驚愕、エキジビションで大金が稼げる、との思惑が外れました。
来日した翌日の76年6月17日は渋谷のセンタースポーツジムでアリの公開トレーニングが行われ、スパーリングパートナーと真剣な打ち合いをして見せました。
6月18日は紀尾井町のホテルニューオータニで外国人記者クラブ向けの会見を行っています。
両者のウエイトはアリが99.5kg、猪木はアリ戦に向けてスピードをアップさせる為に減量を行い100.5kg。
これまでの猪木の公称体重は112kgであり、相当身体を絞り込んでいました。ウィークポイントの膝への負担が軽減されました。
前75年8月猪木はロサンゼルス・オリンピック・オーデトリアムでのハリウッド・ブロンドスとの北米タッグ戦以降、帰国して左膝ウイルス性関節炎(蜂窩織炎)にかかり、8月22日、高崎市体育館で開幕した闘魂シリーズを4週もの長きに亘り欠場。
9月19日千葉公園体育館でのジャック・ルージョーとの試合で力道山ばりの黒のロングタイツで復帰しました(黒のロングタイツはこの1試合限り)。
ここは考え方に個人差はありますが、私はこのウイルス性関節炎の罹患を境に猪木が左膝を対戦相手に狙われることが目立ち、徐々に衰えが目立って来た、と思います。
ビル・ロビンソン戦、ウィリエム・ルスカとの初戦が最後のピークではなかったかと。
アリ戦後も猪木は1度落としたウエイトは戻らず、大技に力強さがなくなって来たと思います。
その代わり、格闘技戦で取得した打撃技(延髄斬り、アリキック等)や腕ひしぎ逆十字固めと言った関節技を多用するようになりファイトスタイルを自ら変革させて「第二期全盛期」を迎える、というのが私個人の考えです。
実際にそこから先のレスラー人生の方が長かった訳ですからそこは猪木を見始めた年代により色々な解釈が存在するかと。
長く猪木の付人を務めていた藤波辰爾によれば「猪木さんの体力的なピークは日本プロレス時代」と言う意見です。
確かに昔の日本人の平均寿命やスポーツ選手のピーク期を考えると20代が最高だったと言うのは理にかなっています。
しかし、日本プロレス時代の猪木は悪い言い方をすればどん臭く、ジャイアント馬場と比べるとやはりナンバー2であり、洗練されていったのは新日本プロレスを旗揚げしてからということになるでしょう。
さて、外国人記者クラブの会見では相変わらず「醜いペリカン野郎」とまくしたてるアリに猪木が「お前は試合が終わったらこれが必要になるだろう」と松葉杖を贈ったことで共に上半身裸になっての組み合いを見せて一触即発の緊迫したムードになりました。
ログインしてコメントを確認・投稿する