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2026年09月19日08:05

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【配信連動企画】昭和プロレス年史外伝��日記でもう一度おさらいしよう!謎多きアジア・リーグ戦(4)

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76年新日本プロレス「アジア・リーグ戦」参加外国人レスラーのプロフィールの続きです。モンゴル代表、ジート&ボロのザ・モンゴルズは74年4〜5月の「第1回ワールド・リーグ戦」以来2年2か月ぶりに揃っての来日となりました。

前回の「第1回ワールド・リーグ戦」では決勝リーグ戦では日本人、外国人問わずの総当たりリーグ戦でしたが、ボロが予選落ちした為モンゴルズ対決は実現せず。もっとも、「パートナー同士は闘わず」として両者不戦敗になっていた可能性が大ですが…。

リーダーのジートは本名ニュートン・タットリー。1931年7月12日、カナダ・ノバスコシア州スプリングヒル出身の当時44歳、(来日中に45歳になる)カナダ人でモンゴル人ではないです。

貧困の家庭で育ち、12歳の頃に家を飛び出し、第二次世界大戦中はトロントのストリート・チルドレン(路上生活する子供)になっていたといいます。54年、ボクシングを習おうとして入ったジムでプロレスラーの 「ワイルドマン」デーブ・マッキグニー(カナディアン・ワイルドマンとして75年1月新日本プロレスに参戦)と出会い、彼の指導のもとプロレスリングを習得しますが、体が小柄だったためプロレスだけを定職とすることはできず、以降約10年もの間、油田で働きながらリングに上がっていました。

63年、スチュ・ハートの主宰するカルガリーのスタンピード・レスリングに参戦、売れるきっかけを掴みました。トロントのジム以来の旧友ワルドー・フォン・エリックの仲介でWWWFにも出場、トニー・ニューベリーのリングネームでジョバーを務め実績を作った後、南部のNWA圏、フロリダ地区に進出。ブラック・ジャック・ダニエルを名乗り、67年2月14日にスタン・コワルスキーと組んでフロリダ版のNWA南部タッグ王座を獲得、同月にはダニエルとして日本プロレスの「MSGシリーズ」に初来日しています。

68年、カルガリーに戻りミスター・ローバストの名で活動後、モンゴリアン・ギミックに変身。クロアチア移民であるヨシップ・ペルゾビッチ(ニコリ・ボルコフ)をパートナーにザ・モンゴルズを結成。自身はジート・モンゴル、ペルゾビッチにはベポ・モンゴルと名乗らせ、辮髪に髭、毛皮のコスチュームをまとったヒールコンビとして、カナダやアメリカ北東部を中心に活動を開始。

70年よりモンゴルズとしてWWWFに再登場、6月15日ニューヨーク・MSGでビクター・リベラ&トニー・マリノ組を破りWWWFインターナショナル・タッグ王座を獲得。翌71年6月18日にペンシルバニア州ピッツバーグにてブルーノ・サンマルチノ&ドン・デヌーチ組に敗れて一度はタイトルを失うも、2週間後7月2日に奪回、11月12日にターザン・タイラー&ルーク・グラハム組に敗れ王座を明け渡すまで、ベポとのコンビで長期政権を築きました。

同時期、ピッツバーグの興行権をサンマルチノから購入してプロモート業にも着手。しかし、興行成績は芳しくなく、72年にNWFのペドロ・マルチネスに興行権を売却、WWWFインターナショナル・タッグ王座も71年12月18日にジョニー・ディファジオと組んでTタイラー&Lグラハム組から王座奪回をしましたが、NWFのピッツバーグ買収に伴い、72年に同王座は封印されました。

1972年7月にはベポを帯同して日本プロレス「サマー・ビッグ・シリーズ」にモンゴルズとして来日。このシリーズは馬場が日本プロレス離脱を表明したシリーズでした。(馬場はシリーズ最終戦まで出場)

73年にベポがモンゴルズを脱退、「シベリアの巨人」ボルコフに変身してWWWFに戻るとピッツバーグでスカウトしたビル・イーディにボロ・モンゴルを名乗らせて二代目としてNWFにてモンゴルズを再編。74年4月には新生モンゴルズとして新日本プロレスの「第1回ワールド・リーグ戦」に登場。予選リーグでは4点を挙げてボロとは1点差で外国人側4位に入り決勝リーグ戦に進出し猪木、坂口征二、マサ齋藤、星野勘太郎、キラー・カール・クラップ、ジ・インベーダー(ビル・ドロモ)、スタン・スタージャックと対戦しましたが、戦績は全敗に終わりました。

以降、モンゴルズはクローズしたNWFのペドロ・マルチネスも参画していたエディ・アイホーン主宰の米国版IWAではIWA世界タッグ王者チームとなりジム・クロケット・ジュニアの運営するNWAミッドアトランティック地区などで活躍、今回の4度目の来日となりました。

ボロ・モンゴルは本名ウィリアム・リード・イーディ、1947年12月27日 ペンシルベニア州ブラウンズビル出身の当時28歳。こちらもモンゴル人に非ず。

ウェストバージニア州立大学卒業後にハイスクールの教員をしていたが、友人とプロレス観戦に行った際にジートからスカウトされ、72年12月15日、ジートがプロモートしており、NWFに買収されていたピッツバーグの興行においてビル・イーディ名義でデビュー。

当初は教員を続けながら時折リングに上がるという「二足のわらじを履く」状態でしたが、73年よりプロレスに専念するようになり、ベポ・モンゴルの離脱後はジートのパートナーとしてモンゴリアン・ギミックのボロ・モンゴルを名乗り、二代目ザ・モンゴルズとして活躍。74年4月に新日本プロレスの「第1回ワールド・リーグ戦」へ初来日。

モンゴリアンにしては端正な顔つきで眼の色も鮮やかなブルーであり、どう見ても東洋系には見えない。予選リーグ戦は3点を獲得、ジートに1点及ばず予選落ちしています。その後の活躍に関してジートと重なる部分なので割愛させて頂きます。

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