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2026年08月16日08:47

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【配信連動企画】昭和プロレス年史外伝�ゾ赦卒猯�島の決闘、アントニオ猪木vsストロング小林(5)

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74年国際プロレス「新春パイオニア・シリーズ」が閉幕した1週間後、2月8日ストロング小林は辞表を持って新宿区高田馬場にある国際プロレスの事務所を訪れ、吉原功社長に退団の申出をしたものの、慰留され話し合いは平行線に。

この話を事前に察知していた「ゴング」は小林に電話取材を行っており、これに対し小林は「団体の外に出て自分の力を試してみたい、馬場さん、猪木さん、坂口さんと対戦してみたい気持ちはある。」と回答。この時点でジャイアント馬場、アントニオ猪木、坂口征二の名前が出ているということは馬場はダミーとしても新日本プロレスからの誘いの話はあったと思われます。

翌2月9日にも小林は国際プロレス事務所に再度現れ、退団を申出。この時も吉原社長には慰留されていますが、吉原社長は「ゴング」の取材に対し、「どうするか見当もつかないが、本人の意思が固いのでどうしょうもない。うちには草津、木村、井上もいるので小林に代わるエースに育てていく。」と小林の退団は止められないといった発言をしています。

元新日本プロレス営業本部長で「過激な仕掛け人」と言われた新間寿は当時を振り返り、「小林さんが国際プロレスを辞めたがっているという話は聞いていた。そこで猪木に『ウチに入れたい』という話をしたところ『新間、ただ入れただけじゃあ、つまんねぇだろ』と言われてピンと来たね。」と語っており、ここで猪木vs小林の世紀の一戦を思いつきました。

それ以来、新間は水面下で猪木vs小林の日本人同士の他流試合実現に向けて小林と交渉、このことは馬場の耳にも入り、小林を新日本プロレスに行かせてはならじと馬場も小林と交渉を開始。

結果的に新日本プロレスが小林を獲得する訳ですが、これには小林の母親(95年に死去)の意向があったと言われています。小林の青梅市小作の自宅は当時としては新しい「親子電話」になっており、小林の母親が馬場と新間、との交渉を親機を使って全部聞いていたということです。

馬場が「小林よ」と業界の大先輩として呼び捨てで応対していたのに対し、新間は「小林さん」と終始「さん」付けで敬語で話していたとのことで、馬場は先輩としては普通の対応ぶりでしたが、新間は常に下手に出て小林を立てました。

新間が「これはいける」と思ったところで「今、横に猪木がいます。代わりますからお待ち下さい」と猪木が電話口に出て「小林さん、猪木です。何も心配要らないから安心して来てください」とダメ押し。「究極の人たらし」猪木の話術の前に小林は陥落、猪木に挑戦、新日本プロレスへの移籍が事実上既定路線となりました。

2月13日付(12日発行)東京スポーツ一面にて「S小林が国際プロレスに辞表提出、フリー宣言」という記事が報じられ、翌13日午後より小林は国際プロレスの事務所から程近い西早稲田の喫茶店「ルナ」にて記者会見を行い、「国際プロレスを離脱、フリーとなり馬場、猪木に挑戦」をぶち上げました。

小林は自筆の「声文書」を読み上げています。「私、ストロング小林は2月2日をもってフリーとなりました。プロレスラーになって8年間のキャリアを積み、皆様のお陰を持ちまして世界チャンピオンとなり、国際プロレスのリングにて頑張って参りました。しかし、昨年は私には最低の年であり、吉原社長を初めファンの皆様の期待に応えることが出来ませんでした。

私としましては、国際プロレスの名の元に吉原社長の温情に甘えていた点が多くあったことを反省し第一歩からやり直し、ストロング小林の名に恥じぬプロレスラーとして立ち直る決心をしました。 

この恩に報いる為、今後は1、2年は一匹狼としてやり直す覚悟であります。出来ればジャイアント馬場選手、アントニオ猪木選手と闘って自分の力を試してみたい気持ちで一杯です。皆様のご指導、ご鞭撻を今後ともストロング小林にお与え下さる様、お願い申し上げます。昭和49年2月13日、ストロング小林」 

小林の声文書ですが、あまりに綺麗事と言いますか、日本人特有の「立つ鳥跡を濁さず」的文章と言いますか、これを見て額面通りに受け取る人はまずいないと思います。

それだけにこの後の小林の行動、猪木&新間の性格的面や、新日本プロレスという団体のカラーを考えれば「国際プロレス潰しを狙った新日本プロレスの引き抜き」というのが本件の長年の定説となっていました。確かに新日本プロレスの引き抜きには違いはありませんが、「Gスピリッツ」などの専門誌による証言記事でその前段としてグレート草津との確執があったことがわかり、現在では小林退団の主因は草津との軋轢にあったというのが「正史」として認知されて来ています。

前年の秋からマッチメーカーとなった草津が小林を不甲斐ないと吉原社長に吹き込み、常に巡業に帯同している訳ではない吉原社長は草津の言うことを信じて小林の冷遇を初めた。

「第5回IWAワールド・シリーズ」では小林は格下の寺西勇に敗れ5勝2敗で予選落ち。次の「ビッグ・ウィンター・シリーズ」ではワフー・マクダニエルにIWA世界ヘビー級王座を奪われています。その会場もノーテレビの和歌山県那智勝浦町観光会館(11月9日)という田舎の小会場でのベルト移動、引き分けに終わり王座奪回成らなかった長野市民体育館(11月14日)もノーテレビ。

王座奪回したシリーズ最終戦、11月30日、後楽園ホールだけはテレビ収録でしたが2日前の11月28日には横浜文化体育館で現役王者のワフーが草津に金網デスマッチでのインディアン・ストラップマッチでカウントアウト負け。しかも奪回戦での小林の勝利は1本反則勝ちが入っており2フォール奪えずに王座奪回。

国際プロレス所属ラストシリーズとなった74年「新春パイオニア・シリーズ」では小林がメインイベントに出たのが前16戦中5大会で、草津が10大会メイン登場という酷さで、チャンピオンがメインイベンターではないという扱いで、草津が重鎮、ラスボス感を出して君臨しています。これでは小林がやる気を失くすのも理解出来ます。



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