77年4月22日、大阪府立体育会館で開幕した「ゴールデン・ファイト・シリーズ」で左腕負傷により欠場していたストロング小林が戦列復帰。
開幕戦のリング上では先シリーズに凱旋帰国した吉田光雄のリングネームが「長州力」と発表されました。当時は横文字のリングネームが主流だった為、これをテレビで見ていた私はガクッと拍子抜けしたのは事実です。
シリーズが終了すると、坂口征二&小林組はタイガー・ジェット・シン&上田馬之助組の持つ北米タッグ王座に挑戦する為に渡米、6月9日(現地時間)バージニア州ノーフォーク・コンベンションセンターでタイトル戦が行われています。
これが北米選手権史上最大の謎でした。新日本プロレスと交流があるロサンゼルス、ニューヨーク、カナダではなくバージニア。
ノーフォークのプロモーターはノースカロライナの大物プロモーター、ジム・クロケット・ジュニアであり完全に馬場派の人物でした。
この年の3月にはジャイアント馬場、ジャンボ鶴田にアメリカ修行中だった天龍源一郎がノースカロライナ州グリーンズボロでのクロケットの興行に出場、日本テレビが馬場vsバロン・フォン・ラシクのPWFヘビー級選手権試合、鶴田&天龍組vsザ・マフィア1&2号を収録して放送しています。
クロケットが新日本プロレスとビジネスを始めるというのは業界の常識としてあり得ない話です。
ゴング77年8月号にこの試合がカラーグラビアと本文の両方に掲載されていますが本文にヒントが隠されているように思います。
シンは坂口&小林組が挑戦表明をしたことに対し「日本では嫌だ。俺のホームリングであるカナダ・トロント・メープルリーフガーデンに来い」と日本での防衛戦を拒否。
これに対して坂口&S小林は「中立のリングでやりたい」と難色を示しています。
カナダ・トロントのプロモーターであるフランク・タニーはこれを聞いて交流のあるニューヨークのビンス・マクマホン・シニアに相談。
「ニューヨークかノースカロライナか?」という選択肢がなされましたが今度は上田が「ニューヨークは嫌だ」とゴネ始め、上田の希望?もあってからバージニア州ノーフォークでの開催が決定しました。
坂口も「シンのホームリングよりはましだろう」とバージニアでのタイトル戦を承諾した、というものです。
このやり取りは以下のように読み替えることができます。
6月24日、大宮スケートセンターで開幕する「アジア・チャンピオン・シリーズ」にシン、上田の参加が決定しており、その前の煽りとして坂口&S小林組が敵地で王座奪回に失敗するシチュエーションが必要だった。
この為新日本プロレス側はフランク・タニーに依頼してトロントでの北米タッグ選手権試合の開催を要請。これは新日本というよりテレビ朝日の意向によるものが強いでしょう。
これより2年前のシンに猪木がモントリオールまで行って挑戦して反則裁定での勝利でNWF世界ヘビー級ベルトが奪えなかったのと同じパターンです。
しかし、シンは地元トロントでは完全なるベビーフェイスであり、坂口&小林組との試合は日本からテレビ朝日の中継スタッフが乗り込むとなるとシンはヒールファイトにならざるを得ません。
そこで助けの手を差し伸べたのはカール・ゴッチと親交の深いノースカロライナのNWAクロケット・プロでブッカーをしていたジョージ・スコット。
藤波辰巳が新日本プロレスとは関係性の薄いノースカロライナで海外武者修行をしていたのもゴッチ、スコットのラインがあったからです。
クロケットにしても自身の本丸であるノースカロライナ州のシャーロッテ、グリーンズボロでの開催は避け、離れたバージニアでの開催なら、馬場に対しても問題なかろう、という判断だったかと思います。
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