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2026年02月16日07:23

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週プロ流智美あの日あの時予想2025年総括(41)

第412戦、10月22日発売号●【予想】力道山13回忌追善興行開催発表、馬場による猪木包囲網(75年10月21日永田町・東京ヒルトンホテル)【正解】日本のお家芸種目が蹂躙された国民的衝撃の裏側 神永昭夫vsアントン・ヘーシンク(64年10月23日日本武道館)

【参考】 2014年10月22日発売号は「馬場・旗揚げ戦」に見えた「物足りなさ」の正体、「旗揚げジャイアント・シリーズ」開幕戦、世界ヘビー級王座争奪戦第1戦、ジャイアント馬場vsブルーノ・サンマルチノ(72年全日本プロレス日大講堂)

【予想解説】75年という年は前74年に猪木に「挑戦を受けろ!」と挑発され続けていた馬場の反撃が用意周到かつ陰湿なものであったということになります。

75年10月21日東京・永田町の東京ヒルトンホテル(キャピトル東急ホテル)で百田家(力道山家、力道山未亡人の百田敬子さんと百田家後見人、リキエンタープライズの山本正男代表)が記者会見を行いました。

本75年は力道山の13回忌にあたる事から、それを記念した大会「力道山13回忌追善大試合」を12月11日、日本武道館にて、全日本プロレス、新日本プロレス、国際プロレスの日本の3団体に呼び掛けて開催すると発表。各団体には事前に相談して賛同してもらっているとのことでした。

12月11日といえば、会見の8日前の10月13日アントニオ猪木が新日本プロレスの事務所で「人間風車」ビル・ロビンソンとNWF世界ヘビー級選手権試合を行うと発表した蔵前国技館と同日。物理的に考えてこれは無理というもの。

時代が平成以降であれば、代替案として新日本プロレスより力道山門下生だった星野勘太郎、山本小鉄、魁勝司(北沢幹之)などを派遣し、提供試合を行うことも可能だったかと思いますが、当時の新日本プロレスと全日本プロレスの関係を勘案すれば、それが無理な話であることは想像に難くないです。

新日本プロレスの蔵前国技館大会の同日に「力道山追善13回忌追善興行」を日本武道館で開催を発表、山本氏は全日本プロレスや国際プロレスだけでなく新日本プロレスにも参加を呼びかけ、猪木に対して力道山の弟子として蔵前国技館大会でのロビンソン戦をキャンセルして日本武道館大会への参戦を要求しています。

山本氏はこの年の夏(6月26日の蔵前国技館あたりか?)に猪木に事前交渉しており、その時に猪木は「それは素晴らしい企画ですね。是非参加させて下さい」と語ったと言います。

猪木は「10月9日の蔵前でのルー・テーズ戦の前に山本氏が『着流し』でやって来て『どうしても出ろ!』と。私はロビンソン戦が決まっているとして断っていた。いくらかの心遣いはさせてもらいます。」と言ったものの交渉は決裂していました。

「力道山追善13回忌追善興行」には全日本プロレスや国際プロレスは当然参加を表明したが、日本テレビで放送されることから、表向きは力道山家の主催興行ではあるが、実質上は全日本プロレスの興行であることは明白でした。

新日本プロレスの蔵前国技館大会は「力道山追善13回忌追善興行」より先に決定していて会場も押さえており、テレビ中継の日程もあって穴を開ける訳にはいかず。

おそらく馬場は新日本プロレスが蔵前国技館を12月11日に押さえていることは、猪木がロビンソン戦を発表する前には調査済だったでしょう。それを利用して後発の強味を生かし力道山家を動かして「力道山追善13回忌追善興行」を計画し、新日本プロレスの蔵前国技館大会と同じ日にぶつけてきた、猪木や新日本プロレスも馬場や全日本プロレスが仕掛けた罠だと察知していたと思います。

この記者会見の席上に馬場がいなかったのは計画的で、それから6日後の10月27日、午後3時から港区六本木の全日本プロレス事務所で記者会見を行った馬場は、百田家が故力道山の13回忌にちなみ12月11日、日本武道館で行う「力道山13回忌追善大試合」への参加を各団体に呼び掛けた件で、全日本プロレスは参加の意思を表明、いの一番に参加を表明しています。

不参加となった猪木に対し、主催者である百田家の百田敬子未亡人は「猪木さんには力道山門下生を名乗って欲しくない」と力道山門下生からの「破門」を通告、山本氏は参戦表明をしない猪木や新日本プロレス対し約束を破ったとして「猪木は恩知らずのバカ野郎だ!」と非難しました。

猪木は山本氏からバカ野郎呼ばわりされたことで腹を括り「ゴング」誌のインタビューに応え、「力道山先生が墓の下で一番喜んでくれることは一体何か考えてください、それは先生が植えつけたプロレスリングを栄えさせることですよ。私はロビンソンとの試合で、絶対に力道山先生に喜んでもらえる試合をやる自信はある。武道館の追善興行は花相撲、こちらは本当のストロングスタイルの試合、向こうと私とロビンソンの試合と、どちらかが本当の追善試合になるかは、ファンの皆さんに判定してもらえればいいと思う」と答え、興行戦争を決意しました。

【正解解説】今回はプロレスではなく柔道の話題でした。「オランダの柔道王」ヘーシンクは1934年4月6日オランダ・ユトレヒト出身。

ユトレヒトの貧しい家庭で育ち、12歳のときから建設現場で働いていました。14歳より柔道を始め、ユトレヒト市内の中等学校を卒業した後、55年、オランダ柔道チームの指導を始めた道上伯に見出され徹底的な個人指導を受けた他、日本でも講道館や天理大学で松本安市らの指導を受け、選手としての才能を開花させています。

56年に東京都で開かれた第1回世界柔道選手権大会では、準決勝で吉松義彦に内股で一本負けを喫して3位、2年後の58年の第2回大会では準々決勝で山舗公義に内股返で一本負けしベスト8に終わりましたが、61年の第3回大会では準決勝で古賀武、決勝では前大会覇者の曽根康治を袈裟固めで破り外国人選手では初となる優勝を果たしています。この時、オランダに凱旋帰国したヘーシンクを30万人もの人々が迎えたといいます。

64年に開催された東京五輪では、柔道の無差別級に出場し決勝戦で日本代表の神永昭夫五段と対戦、9分22秒、袈裟固めで一本勝ちし金メダルを獲得。柔道が正式競技として初めて採用された地元かつお家芸、という風潮が残っていた当時最も重要視されていた無差別級で外国人が日本代表を下して優勝を果たした事に日本国民と日本の関係者は衝撃を受けました。その為、この日の出来事は、後々、国内外の柔道史の話題に頻繁に上っている。

ヘーシンクが神永に勝利した瞬間、会場の日本武道館は信じられないものを見たような静けさに包まれました。
 
65年、第4回世界選手権80Kg超級で優勝を果たす。そして自身の足の怪我と、全日本王者だった坂口征二を同大会で破ったことを理由に翌日の無差別級への出場を辞退し現役引退を表明しました。

その後オランダで後進の指導にあたっていたヘーシンクは73年10月、プロレス転向を表明し全日本プロレスに参戦、先にプロレス入りしていた坂口とプロレスのリングで対戦することはありませんでした。

※対戦成績は412戦63勝349敗、勝率153。
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