第397戦、7月2日発売号●【予想】人間風車ロビンソン、僅か半年で全日本に鞍替え、ジャンボ鶴田&ヒロ・マツダ組vsビル・ロビンソン&ジェリー・ブリスコ(76年全日本プロレス後楽園ホール)【正解】馬場のインター長期政権に垂涎、NETテレビが「ウチにも」インターナショナル選手権試合、ジャイアント馬場vsキラー・カール・コックス(70年日本プロレス大阪府立体育会館)
【参考】 2014年7月2日発売号は、「ワールドプロレスリング」の記念すべき初回放送!NETワールドプロレスリングが放送開始(69年)
【予想解説】全日本プロレス76年「サマー・アクション・シリーズ」は7月1日名古屋市体育館で開幕。前年12月、新日本プロレスのリングに初参戦し猪木とプロレス史に残る名勝負を展開したビル・ロビンソンが僅か半年後に全日本プロレスのリングに初参戦。
その他、ジ・アベンジャー(ムース・モロウスキー)、ジェリー・ブリスコ、スコット・ケーシー、アル・マドリル、シルバーノ・サウサの外国人選手が参戦。日本側の助っ人としてヒロ・マツダが特別参加。
何と言ってもロビンソンの全日本プロレス初登場が大きな話題を集めました。
ロビンソンは75年11月8日、ミネソタ州セントポール大会でのキム・ドクとの試合を最後にAWAを離脱。奇しくもこの日はバーン・ガニアがニック・ボックウィンクルに敗れAWA世界ヘビー級王座から転落した日でした。
ロビンソンはガニアが一向に自分をAWA世界ヘビー級王者にしようとしない事に強い不満を持っていました。後継者に自分でなくニックを指名した事でロビンソンのガニア不信は決定的なものとなり、72年以来3年在籍したAWAを離れました。
ロビンソンは11月17日にはニューヨーク・MSGのWWWF定期戦に出場、ジョニー・ロッズを7分23秒、ワンハンド・バックブリーカーからの体固めで一蹴。12月に新日本プロレスに初参戦。12月11日、蔵前国技館で猪木とNWF世界ヘビー級王座を賭けて闘い、1−1から60分時間切れ引き分けとなっています。
ロビンソンは帰国後、フロリダのエディ・グラハムの地区をサーキット。グラハムの経営する「チャンピオンシップ・レスリング・フロリダ」でブッカーをしていたドリー・ファンク・ジュニアに相談。
「ニュージャパンからオファーがなく、新間にギャラを値切られた。2度と行きたくない。日本へ行くならオールジャパンとビジネスをしたい。口を利いて欲しい。」
ドリーはボスのグラハム、共同オーナーだったヒロ・マツダに話を通した上でロビンソンを全日本プロレスにブッキング。
馬場もロビンソンが売り込んで来たとあっては渡りに船とばかりに快諾、ロビンソンの全日本移籍が決まりました。
3月のダスティ・ローデスとの試合で肩を負傷し試合を欠場していたロビンソンは練習不足で下腹の肉を隠す為かアマレスの吊りパン形式のコスチュームを着用。
開幕戦でロビンソンはケーシーと組んで早くも馬場、鶴田組と対戦。鶴田から1本目を先取、2、3本目は馬場、鶴田がそれぞれケーシーから取り日本組が勝利しています。
第2戦7月2日、後楽園ホール大会はテレビ中継。メインは鶴田&マツダ組vsロビンソン&ジェリー・ブリスコ組。
1本目は14分7秒にロビンソンが鶴田を片エビ固め。2本目はマツダが6分48秒にジェリーからリングアウト勝ち。3本目は鶴田かジェリーを体固め。2-1で鶴田、マツダ組が辛勝しています。
【正解解説】全盛期のジャイアント馬場のライバルの一人、「殺人鬼」キラー・カール・コックス、本名ハーバート・アラン・ガーウィッグ、1931年4月26日メリーランド州ボルチモア出身(生年については1928年生まれ説もあり)
学生時代はレスリングとボクシングで活躍する一方、不良少年グループのボスとしても名を馳せていたといいます。海兵隊に入隊し朝鮮戦争に従軍後、プロレスラーの "ジェントルマン" フレッド・ボザックにスカウトされ54年に23歳でプロレス入り(デビュー年は諸説あり、56年説もある。)
デビューはハーブ・ガーウィッグの名前でクリーブランド、バッファロー、ピッツバーグなどアメリカ北東部にて活躍。61年、ネブラスカ州オマハのプロモーターだったジョー・デューセックの発案によりキラー・カール・コックスと改名。白人至上主義組織であるクー・クラックス・クランをモチーフとし「KKK」のギミックでヒールとしてトップレスラーとなりました。
テキサスでは64年にブル・カリーとブラスナックル王座を争、65年6月29日にはフリッツ・フォン・エリックと組んでエディ・グラハム&サム・スティムボート組からテキサス版のNWA世界タッグ王座獲得。
ロサンゼルスのWWAに転戦し66年5月に日本プロレスの「ワールド選抜シリーズ」に初来日、初来日第1戦となった5月20日町田市体育館では吉村道明を相手に脳天から落とすブレーンバスター(垂直落下式)を見せて観客を驚愕させました。
66年5月23日には仙台・宮城県スポーツセンターでジョー・カロロとタッグを組み、馬場&吉村組を破り豊登の日本プロレス退団により空位となっていたアジア・タッグ王座決定戦で破り王座獲得。
5月28日札幌中島スポーツセンターでヒロ・マツダ&吉村組に王座を奪われましたが、コックスは次の「ゴールデン・シリーズ」に残留。6月27日名古屋市金山体育館で今度はエディ・グラハムをパートナーにマツダ&吉村組からアジア・タッグ王座を奪取。翌6月28日大阪府立体育会館でマツダ&デューク・ケオムカ組を相手に反則負けで初防衛を果たしました。
7月1日広島県立体育館で馬場&吉村組に敗れ王座転落しましたが、その狂乱ファイトぶりが高く評価され7月5日東京体育館では馬場のインターナショナル王座に挑戦、この時は反則含みながら2−0のストレート勝ちで馬場が3度目の防衛に成功しています。
コックスは68年9月の「ダイヤモンド・シリーズ」に再来日、9月28日大阪府立体育会館で馬場のインターナショナル王座に2度目の挑戦。1−1から時間切れ引き分けと馬場を追い込み、11月2日蔵前国技館で再戦、2−1で馬場が辛うじて勝っています。
70年6月の「第1次ゴールデン・シリーズ」に3度目の来日を果たしたコックスは7月2日大阪府立体育会館で馬場のインターナショナル王座に4度目のチャレンジ。1本目は17分2秒、コックスが片エビ固め、2本目は4分12秒に馬場が体固め、決勝の3本目は5分17秒に馬場が反則勝ちを拾い、2−1で馬場が16度目の防衛を果たしました。
※対戦成績は397戦62勝335敗、勝率156。
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