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2025年05月25日11:00

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文京区本駒込 養昌寺と吉祥寺

上京2日目5/15(木)、東京国立近代美術館でアジア初の「ヒルマ・アフ・クリント展」を観たあと竹橋の地下レストラン街で昼食に蕎麦、その後東西線〜南北線と地下鉄を乗り継ぎ文京区の本駒込へ。

本郷通を北へ5分程歩くと、左側に曹洞宗の養昌寺がある。
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狭い入り口の左側には文京区教育委員会のパネルが立っていて、「半井桃水の墓」とある。
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半井桃水(なからいとうすい/1860-1923)と言っても知らない人が大いに違いない。明治時代の小説家だが、書いた作品は今殆ど読む人もいない。ただ、18歳で小説家になる決心をした樋口一葉(1872-96)が、知り合いに紹介されて翌年彼に師事をした事、25年間という短い生涯だった彼女の淡い恋の対象となった人物として知られるのみ。

樋口一葉については、2019年に浅草、2022年に本郷界隈の足跡を訪ねて歩いた事がある。
以下にそのレポートの中から、半井桃水について触れているものを、参考迄にピックアップしておく。
・「浅草散策と樋口一葉」(2019.1.28記)
https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1970170881&owner_id=3341406
・「上京2日目〜本郷界隈� � (2022.11.28記)
https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1983816371&owner_id=3341406
「同��」(同11.30記)
https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1983826752&owner_id=3341406

これが万延元年に生まれ大正15年に66歳、脳溢血で亡くなった半井桃水の墓である。半井家代々の墓に葬られ、単独の墓は建てられなかったようだ。
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更に本郷通を3分程北へ歩くと、右側に大きな吉祥寺の山門が見える。
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門には「旃檀林」(せんだんりん)との額が掛かっていて、学寮には常時1,000人もの学僧がいる曹洞宗の養成機関があった。
室町時代1485年に創建され、幾度かの移転を経て、江戸時代には七堂伽藍を誇る大寺院となったが、太平洋戦争の東京大空襲で焼失し、山門と経蔵のみが残った。

門を入り、のち復興された本堂方向へ延びる緑溢れんばかりの参道。
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歴史のある名刹で、数多くの著名人の墓がある。
今回は榎本武揚、赤松則良、林洞海らの墓を訪れるのが目的でやってきた。
彼らは江戸時代末から明治初期に深い関係があった。

江戸幕府は1862(文久2)年、先進国の軍事技術・学問習得のため、優秀な幕臣と職人を選りすぐってオランダ留学をさせた。
軍艦操練所からは、内田正雄(通称 恒次郎/1839-76)、榎本武揚(1836-1908)、澤太郎左衛門(1834-98)、赤松大三郎(のちの則良/1841-1920)、田口俊平(1818-67)を、
蕃書調所からは、西周(1829-97)、津田真道(1829-1903)、
長崎養成所からは伊東方成(のちの玄伯/1832-98)、林研海(別名 紀/1844-82)、
その他である。

榎本武揚らは1866(慶応2)年、オランダで完成した開陽丸に乗って帰国。
赤松則良、林研海はオランダに残り、留学を継続するも、1868(慶応4/明治元)年、大政奉還を知り、留学を中止、同年帰国。
赤松は、戊辰戦争が起こると、幕府海軍副総裁となった榎本武揚と合流し江戸脱出を試みるが果たせず、徳川家臣らと静岡藩へ移る。
西周は静岡藩沼津兵学校初代校長に、赤松は同校陸軍一等教授方となり、引き続き徳川家のために働く。
その後、明治新政府に出仕。

長崎でオランダ医学を学び和田塾(のちの順天堂)を設立した佐藤泰然(1804-72)と長崎で共に学んだ林洞海(1813-95)は、泰然の娘つると結婚して同塾を引き継ぎ、幕府医師の最高位となる。
榎本、赤松らとオランダ留学をした林研海は洞海の長男である。
研海は1868年帰国、明治新政府に出仕、のち陸軍軍医総監、軍医本部長となる。
1866(慶応2)年に帰国していた榎本武揚は、翌1867(慶応3)年、洞海の長女(研海の妹)多津(たつ)と結婚、赤松則良も洞海の次女 貞(てい)と結婚した。六男 伸六郎は西周の養子となった。
したがって、榎本武揚、赤松則良は林洞海の義理の息子、林研海とは義理の兄弟となったのである。

以下レポート参照
・「賀茂真淵記念館講座「男爵 赤松則良と西周、そして森鴎外〜いわゆる『舞姫』事件の顛末について」第1回 (加筆)」(2024.12.15記)
https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1988997957&owner_id=3341406

レンガ造り丸屋根の風変わりな建造物が赤松家の墓である。
墓誌の一番右に「従二位勲一等男爵海軍中将赤松則良」と戒名、その左に妻 貞の戒名その他が続く。
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同じ敷地内の端にあるもう1基は則良の長女で、森鴎外に嫁ぎ1年半程で離婚した登志子(1869-1900)の墓である。
表面
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裏面
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登志子は1893(明治26)年に海軍法務官 宮下道三郎と再婚。一男一女をもうけたが、長男 馨三(けいぞう)は1895(明治28)年夭逝。翌1896(明治29)年に美代子を出産したのち、1900(明治33)年、肺結核で亡くなった。28歳だった。
長女 美代子も結核で1917(大正6)年、21歳という若さで亡くなった。
墓の登志子名の左に彫られているのが馨三と美代子である。
登志子の遺骨が再婚相手である宮下道三郎の墓に葬られなかった理由は分からない。

森鴎外の人と作品についてはこれ迄随分学びレポートもしてきたし、登志子についても折に触れて。
三鷹の禅林寺にある鴎外の墓は2022年に訪れた、登志子の墓も是非に詣でたいと思ってきたが、今回ようやく果たす事ができた。

以下レポート参照
・「賀茂真淵記念館講座「男爵 赤松則良と西周、そして森鴎外〜いわゆる『舞姫』事件の顛末について」第3回(最終回)�◆�(2025.2.10記)
https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1989376006&owner_id=3341406
・「「赤松登志子と子どもたち」展/磐田 旧赤松家記念館�◆�(2025.2.25記)
https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1989471664&owner_id=3341406


そして、こちらが大きな榎本武揚の墓。「海軍中将子爵榎本武揚墓」と彫られている。左は妻 多津のそれ。
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赤松の墓にはなかったが、こちらには文京区教育委員会のフレートが立っていた。
知らずにきたが榎本は東京農業大学の設立に関わったらしく、同校の130周年記念の碑もあった。
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ぐるりと塀が取り囲み、門には鍵がかかって近づけなかったため、他の墓石については調べる事ができなかった。

続けて、林研海の父 洞海の墓を探して歩き回ったがなかなか見つからなかった。
長男 研海は1882(明治15)年、有栖川宮熾仁親王に従ってロシアに向けて出立したが、途中パリで客死。数え39歳。墓はここでなく谷中霊園にある事が分かっている。
諦めようかと思った時、洞海の墓を墓地の南端辺りにようやく見つけた。
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中央が林洞海(1813-95/83歳没)、左が妻つる(1822-91/68歳没)、右が側室はる(1836-90/53歳没)の墓である。

そして、佐藤泰然が1838(天保9)年に起こし林洞海が継いだ蘭医学の和田塾は1946(昭和21)年に順天堂医科大学となる。
こちらが、吉祥寺墓地にある順天堂大学の供養塔。
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佐藤泰然の墓も谷中霊園にあると聞く。

吉祥寺には、他に、二宮尊徳、小説家 川上眉山、井原西鶴の『好色五人女』に組み込まれた八百屋お七と吉三郎の塚などもある。

こちらは文京区有形文化財となっている経蔵。
1686創建、1778(安永7)年焼失、1804(文化元)年、焼け残った礎石を基に再建。
各所に施した彫りの深い木彫が美しい。
蔵内には経典を収蔵する八角形の転輪蔵が置かれているとの事。
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静かな境内を出て、本郷通を南へ下る。
残る目的地は根津神社1ヶ所のみ。
 
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