mixiユーザー(id:3341406)

2025年02月10日11:00

142 view

賀茂真淵記念館講座「男爵 赤松則良と西周、そして森鴎外〜いわゆる『舞姫』事件の顛末について」第3回(最終回)��

(続き)

森林太郎が離縁のつもりはなく別居だと言っても、海軍中将にして男爵である赤松則良の立場では、登志子は赤松家に帰させる(離縁させる)との結論を出すしかなかった。
一方、登志子の息子、生まれたばかりの於菟は森家へ。(*)

2人の離縁は1890(明治23)年11月。結婚生活は僅か1年半余りで終わった。
戸籍を見ると、何故かは今も不明だが、登志子は林太郎の籍に入っていなかった。

後、登志子は1893(明治26)年11/28、海軍法務官 宮下道三郎と再婚。
一男一女をもうけるが、長男 馨三(けいぞう)は1895(明治28)年夭逝。登志子は翌1896(明治29)年3/4に美代子を出産したのち、1900(明治33)年、肺結核により、磐田市に移っていた赤松邸で療養後亡くなった。28歳。
夫 宮下道三郎は職業柄転任が多かったため、登志子と美代子は赤松家で預かっていた。

登志子の死について、鴎外は親友賀古鶴所の手紙により赴任先の小倉で知った。
鴎外のその時の心中は『小倉日記』に見る事ができる。
以下レポート(2017.9.9記)参。
https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1962542472&owner_id=3341406

その後、美代子も登志子と同じ結核で1917(大正6)年、21歳という若さで亡くなる。

 (*)引き裂かれた登志子と於菟の間にこんなエピソードが残されている。
森於菟著「鴎外の母」(『父親としての森鴎外』1969より)に、峰(於菟からすれば祖母)より後日聞いた話として、峰が根津神社の境内で偶然再婚後の登志子に出会った事が書かれている。

登志子の峰への言葉以降を引用する。
…「今から思いますとほんの子供の、何事もわかりませぬわたくしの我儘から旦那様(林太郎)にうとまれまして、あなたにも申し上げようもないご心配をかけました。叶わぬ願いとはあきらめて居りますものの、この世で今一度おめにかかりお詫言を申せたらと、思えば眠れぬ夜もいく度かございました。」との悔み言に「まあまあお登志さん。」と嫁であった時と同じように呼びかけた祖母は、「過ぎ去った事は今さらなんとも致し方がありません。あなたも今は他家の奥様、これからの御身ですからどうか御大切に。於菟は私が面倒見て居りますからご心配なく。もうこの近くの小学校(誠之小学校)に行って居ります。よそながら御覧になるなら御連れしましょうか。」「子供の事は(中略)あなた様が御世話下さいますなら心残りも御座いません。あいましてもかえって子供のためになりますまい。それにわたくしも、どうやらすまぬ心持もいたしますから、それではこれでお別れいたしましょう。(中略)皆様御大切に。」「あなたも御機嫌よう、御無事に。」(中略)祖母の聞いた私の生母の最後の挨拶であった。…

登志子は峰にそうは言っていないが、おそらく峰でなく我が子 於菟に会いたくて、小学校への往き帰りに彼がこの根津神社の境内を通るに違いないと思い、ここで何度も彼を待っていたのではなかろうか。
登志子の心中を想うと、何とも切ない。
これが登志子再婚直後の事であれば1893(明治26)年の事だから、この7年後には彼女は亡くなった計算になる。


最後に、森峰の悔恨の言葉を記しておきたい。
…私(於菟)はある時祖母(峰)が私にいうのを聞いた。「あの時私達は気強く女(エリーゼ)を帰らせお前(於菟)の母(登志子)を娶らせたが父(林太郎)の気に入らず離縁になった。お前を母のない子にした責任は私達にある」と。…(『父親としての森鴎外』(1969)より)
峰は息子 林太郎の出世と森家の復興を思うばかりに、エリーゼと登志子2人の若き女性を犠牲にしてしまった、於菟にも可哀そうな事をしてしまった、と一生後悔の念を抱き続けたのである。


[参考資料]
『父親としての森鴎外』(筑摩叢書159)
 執筆 森於菟
 発行 1969年12月、筑摩書房初版第1冊発行
 
1 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する

<2025年02月>
日 月 火 水 木 金 土
      1
2345678
9101112131415
16171819202122
232425262728