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2025年02月25日10:00

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「赤松登志子と子どもたち」展/磐田 旧赤松家記念館��

(続き)

林太郎が登志子との結婚に際して陸軍に提出した書類が見つかった。

◆結婚時の陸軍届け出書類
林太郎が結婚した1889(明治22)年頃には、「陸軍武官結婚条例」なるものがあった。
日露戦争(1904-05)迄、陸軍の現役将校、准士官らは、結婚しようとすれば、陸軍省に届出と併せて「保証金」(「家計保護金証書」)を預けるという法律である。
その金額は、大尉で460円、中・少尉で600円、准士官で80円。
この条例ができた1881(明治14)年頃の俸給(給料)は、少尉で月15円/年俸180円だった。現在の金額に換算すると、年俸は54〜72万円というところで、それに比し保証金は大変に高額である。
軍人に品位を持たせようとしたのが狙いだったが、保証金を払えない者が多く、結果的に、内縁関係の夫婦が多くなったと言われている。
林太郎が出した書類は、会場にコピーが展示されていた。

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真ん中の書類に保証金は460円とある。右の書類に宛先は「陸軍大臣伯爵大山巌」とある。

◆登志子写真2,3
次は結婚した1889(明治22)年に撮られた登志子の写真。日付が分からないので、17〜18歳という事になる。
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こちらは18歳とのデータが書き添えられた写真。
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このあと、1890(明治23)年11月、森林太郎と登志子(19歳)離婚。

後年、於菟が書いた『父親としての鴎外』(1969)中の「鴎外の母」には、登志子の母 貞が林太郎の母 峰に怨言を言っている場面がある。
「娘に不つつかの所、御気に入らぬ所があればあなたから私に一言でもおっしゃって下さったら叱ってでも直させましたのに、突然表立ってああなされては則良も男でございますから。」
貞の言い分は、林太郎の当初の心づもりが、別居であって離婚ではない、時々往来もするつもり、だとしても、私どもが全くもって知らぬうちにこうした事態にしてしまわれたのでは、父 則良として、登志子を家に戻し離婚させる他ない、という事だと思われる。
勿論、幼い於菟がこの会話を直接聞いている筈もなく、峰からのまた聞きを書いたものではある。

離婚から3年後、1893(明治26)年11/28、登志子(22歳)は海軍法務官 宮下道三郎と再婚する。

◆登志子再婚 結納品目録写真
下は、今回展示されていた、その婚儀に向けて宮下家や親戚からもらった結納品の目録。表には則良が書いた「登志子婚儀備忘」、「明治26年11月」の文字。

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中にはその明細が、右から「羽織袴」、「松魚節」(かつおぶし)、「末広」(扇子の事)とあり、1行空けて「宮下道三郎」の名、そして更に「紅白真綿」が2点など。

他人に任せず、全て則良の自筆であり、彼の性格が分かるような気がする。

◆登志子写真4
1895(明治28)年とのデータがあるので、再婚の2年後、23〜24歳の写真。
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◆登志子の子どもたち
森林太郎との間に生まれたのが、
・於菟(1890/明治23.9.13-1967/昭和42.12.21、77歳)

宮下道三郎との間に生まれたのが、
・馨三(生年月日不明-1895/明治28.3.14、夭逝)
・美代子(1896/明治29.3.4-1917/大正6.8.28、21歳)

登志子は美代子を出産後、間もなく体調を崩した。
赤松家は1899(明治32)年5/25に東京から磐田(現旧赤松家記念館)へ転居。宮下道三郎は職業柄転任が多かったため、登志子と美代子は赤松家で預かる事が多かった。
登志子は結局翌1900(明治33)年1/28、肺結核のため赤松邸で亡くなる。28歳という若さだった。

◆登志子写真5
下の写真は、1899(明治32)年5月の登志子(27歳)。黒紋付きを着ているので、東京から磐田に転居してきたその日に撮影したものかもしれない。
彼女が亡くなったのはこの僅か8ヶ月後である。
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以前の写真に比べると痩せて、やつれているように見える。


(続く)
 
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