3/28(土)、天竜川上流の「秋葉ダム千本桜」で満開の桜を観る。秋葉ダムは何度か脇を通った事があるが、ここで花見をするのは初めて。静岡市に住む姉が3/24(火)に同地を訪れ、見頃だったと言うので、私も行く気になった。浜松市浜名区の我が家からは車で1時間
(続き)2025年11月、HIMARIはフィラデルフィアに戻り、カーティス音楽院でカヴァフィアンのレッスン。1ヶ月後の年末に名門スイス・ロマンド管弦楽団と演奏するブルッフのヴァイオリン協奏曲第1番の練習。カヴァフィアンは言う、「今は狭い部屋にいてピアノ伴奏
(続き)2025年1月ニューヨーク、初めてのレコーディング。ピアノはチェルシー・ワン。曲目は、2024年末にフィラデルフィア管弦楽団と演奏したワックスマンの《カルメン幻想曲》のピアノ伴奏版 他。レコーディングに入る前に、カーネギーホールの隣に立つビルの3
3.21(土)、NHK-BSが放送した『HIMARI という名の才能~14歳のヴァイオリニストの現在地』について。2024年11月、13歳のHIMARI(2011.6.24- )は日本で本格的に演奏家デビュー。これ以前にも単発のコンサート出演はあったが、リサイタルツアー(「HIMARI Violin R
3.26(木)の中日新聞記事。「戦犯弁護人~祖父が残した記録」連載全5回の最後。太平洋戦争後の1946~49年、オランダが開いたインドネシア・アンボンでのBC級戦犯裁判で、戦犯らの弁護に当った岩瀬良尾弁護士が残した個人的ノート(岩瀬ノート)を見つけた孫の嘉之さ
昨日の日記のレポートでは、3.24(火)の中日新聞朝刊記事を前提に整理を行った。ところが、翌3.25(水)の記事(以下の写真)で内容に変化があったため、それに従ってレポートも修正する事とした。◆起訴された日本人3人・少佐;准尉の上司。(現地憲兵隊の上官)・
インドネシア・アンボンにおいてオランダが行ったBC級戦犯の1裁判について、3.24(火)中日新聞朝刊に掲載された記事その3。この記事だけでは理解しきれないところがあるが、以下、それなりにまとめてみた。起訴された日本人3人;・少佐;准尉の上司。(「連隊の
昨3.23(月)の日記に「戦犯弁護人 祖父が残した記録~1」として書いたレポートに、3.22(日)中日新聞朝刊の同題記事のスクラップを貼付した。記事は全5回の予定で、3.23(月)の中日新聞朝刊には同記事その2が掲載されたため、以下に貼り付ける。記事中の写真の右
3.22(日)の中日新聞朝刊記事より「戦犯弁護人〜祖父が残した記録」。太平洋戦争後の1946〜49年の間、インドネシアのアンボンではオランダが開いた法廷は12回で、旧日本軍軍人から1,038人をBC級戦争犯罪人(*)として裁いた。内、死刑となったのは236人。他国で
(後編1から続き)獅童の代表作に10年以上続く演目がある。絵本『あらしのよるに』(1994-2005講談社/作 木村裕一,絵 あべ弘士)を原作とした同名の新作歌舞伎だ。 2015年、京都南座初演、ヤギのメイ 尾上松也、オオカミのガブ 獅童。喰う・喰われるの関
(前編から続き)中村獅童の歌舞伎におけるスタートは散々なものだった。獅童「ありとあらゆるオーディション等を受けたが、ことごとくダメだった。歌舞伎で群衆の役しかやっていない者に来るオファーは1つもない。その時、僕がもっとおりこうさんだったら、辞
3.10(火)と17(火)に放送したNHK-Eテレ「NHKアカデミア」(前・後編)は、歌舞伎俳優 二代目中村獅童。以下、「 」内は獅童が語った言葉、多少意訳や省略もあるが。「"獅童"というのは、僕の父が子役だった時の名前。二代目と言っても、父は子役で歌舞伎を辞めて
3.1(日)に諏訪敦展を観るため天王洲アイルの「WHAT MUSEUM」に出かけた事は、3.4(水),5(木)の日記にレポートした。天王洲運河周辺の天王洲アイルは、もはや倉庫街ではなく芸術文化の発信地に変化しつつある。当日は、「WHAT MUSEUM」から運河沿いの「天王洲第
(続き)グスタフの映画制作への思い、その核にあるのは彼が7歳の時に家で自死した母カリンだった。自身老いを迎え、何故母は死を選んだのか、それについて正面から向き合い、喪失を乗り越えたい。かつて長女ノーラにも自死の危険が迫った事があった。最後の映
3.16(月)、シネマイーラ浜松で『センチメンタル・バリュー』を観る。デンマークのコペンハーゲンで生まれ、ノルウェーで活動するヨアキム・トリアー(1974- )が監督し脚本も書いた2025年作品で、カンヌ国際映画祭でグランプリを受賞した。2006年に長編監督デビ
3.8(日)に静岡県立美術館で「中村宏 アナクロニズムのその先へ」展を観た事は、3.10,11,12の日記に3日連続の長いレポートをしたためた。浜松市からだと、よほど天気が良ければ、高い建物の上階から、富士山の頂上付近がほんのちょっと見える事がある程度だが
(続き)もう一つアメリカが抱えていた火種がベトナムだった。軍事顧問団(1955~//1962~軍事援助司令部)という名目で多くの兵士を南ベトナムに送り込んでいた。1962.4、ベトナムを視察したルメイは敵対勢力を壊滅させる計画を主張。アメリカはルメイが開発させた
(続き)そして、第21爆撃軍司令官として白羽の矢が当たったのが38歳のルメイだった。ドイツ戦線,中国戦線と、常に結果を出し、当時最年少の少将となっていた。アーノルド「この仕事には経験と知識、判断力を持つ人物が必要だったが、同時に鋼のような冷徹さも
3.9(月)、NHK総合の「映像の世紀 バタフライエフェクト」は、『将軍ルメイ「悪魔」と呼ばれた男』を放送した。この日に放送したのには深い訳がある。米国ネブラスカ州オファット空軍基地 世界で軍事力を展開するアメリカ軍は核戦略の司令塔をここに置いてい
(続き)中村には、初期(「タブロー論・テーゼ」/1958)から美術の根拠を「観賞」に置くという絵画観があった。作者の制作行為だけでは創造は成立しない、物質としての絵画を鑑賞者が認知する事によって初めて絵画の創造性が立ち上がる。絵画を作家の内面表現やイ
(続き)1951年に19歳で上京し、西武新宿線江古田駅近くに住居とアトリエを定め、日本大学芸術学部へ進学した。大正時代末期からその辺りは「池袋モンパルナス」と呼ばれ、家賃も安く、多くの貧乏芸術家が住んでいた。学生運動や社会活動が高揚する時期、中村は
3.8(日)、静岡県立美術館で開催中の中村宏展を観る。正確なタイトルは「中村宏〜アナクロニズム(時代錯誤)のその先へ」。チラシは5種類程あったが、以下その内の3枚。・会期 1.26~3.15これ迄に私は中村宏の個展を3度観てきた。1)「図画事件/東京都現代美術館
近くにあるモクレン通りは、7km程、道の両側にハクモクレンが並んで、今盛り。今日は風が冷たかったが、頑張って咲いていた。おそらく今週いっぱいで散り始める事だろう。
静嘉堂@丸の内の「たたかう仏像」展は3.1(日)に上京したおりに観た。以下レポート参。https://mixi.jp/home.pl?from=l_navi#!/diary/3341406/1991718494昨3.7(土)の中日新聞朝刊に同展の記事が掲載された。理解を深めるため、下に貼付し、少々加筆しておこう
2.7(土)、豊田市美術館で高島野十郎展、豊田市コンサートホールで名古屋フィルの演奏会。その復路、東名高速を車で帰る際に熱っぽさを感じた。痛みという程ではないが、胸にイヤな感じもあった。2.8(日)、朝体温を測ると37.3℃。1日ゆっくり寝る事とする。2.
3.4(水)、アクトシティ浜松中ホールで行われたフルート上野星矢(せいや/1989- )とピアノ谷昂登(あきと/2003- )のデュオ・コンサートを聴いた。上野星矢は2024年5月、富士山静岡交響楽団の第124回定期演奏会でモーツァルトのフルート協奏曲第1番K.313(285c)
(続き)Chapter 3「横たえる」この展示室の絵の中で横たわる人々は、全て諏訪自身の家族である。ベッドで多くの管につながれた父、亡くなった父のデスマスク、その父が手記に遺したハルビンの難民収容所で病死した祖母の存在は諏訪のリアリズムを新たな領域へ
寺田倉庫が運営するWHAT MUSEUMは、埋立地・天王洲の倉庫空間を現代アートや建築との出会いの場へと昇華させた倉庫会社ならではのミュージアム。私は今回初めて行く。そのWHAT MUSEUMで、現代日本絵画でリアリズムを牽引する画家 諏訪敦(1967- )の個展「諏訪
3.1(日)、上京して2つの展覧会を観た。1つは静嘉堂@丸の内の「たたかう仏像」。もう1つは天王洲アイルのWHAT MUSEUMの「諏訪敦 きみはうつくしい」。先ずはオール静嘉堂所蔵品による「たたかう仏像」展についてレポートする。・会期 1.2~3.22チラシの像は唐時
■■このレポートの本来のテーマである「観た聴いた読んだ」の月次棚卸しの前に、日々の出来事や歳時記など、備忘のため書き留めておく。2.3 衆院選期日前投票を済ます。2.8 衆院選投票日。自民党の圧勝に終わる。TK1総理は、具体的な政策は何も提示していな