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2019年01月28日18:02

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浅草散策と樋口一葉

(続き)

1/22(火)、上野の森美術館でフェルメール展を観たあと、陽もとうに落ちて冷たい風の吹く中を浅草迄歩き、当夜宿泊のAホテルに戻った。
夕食は外に出、浅草寺の脇にある老舗大黒家本店でビールに天麩羅。1887(明治20)年の創業時はそば屋だったらしい。

ここ迄来ておいて素通りはないだろうと、一応お参り。
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浅草寺は夜遅くても人がいる。いろいろと出身も違いそうな外国人の顔も多々。

ホテルの部屋でもう一杯だけ呑んで、第1日目はお終い。

・・・・・・

1/23(水)、9:30チェックアウト。
荷物を預けて、浅草を散策する。
浅草に縁の深い作家と言えば、樋口一葉と池波正太郎である。
彼等の関係した地を中心にここもあそこもとピックアップしていたが、結局はそうもいかなかった。

まずは国際通りを北へ真っ直ぐ上がって、一葉記念館へ向かう。

一葉と母と妹は、1893(明治26)年7月に下谷龍泉寺町(現在の台東区竜泉3丁目)の貧乏長屋に引っ越してきて、荒物と駄菓子を売る店を開いた。
近くには吉原遊郭もあり、ここでの経験が代表作『たけくらべ』(1895)に見事に活かされる事になる。
1894(明治27)5月にはここを引き払い、本郷区丸山福山町(現在の文京区西片1丁目)に転居した。
生活は更に逼塞し、1896(明治29)年11/23、結核のため僅か24歳6ヶ月で一葉は没した。
1894年12月から1896年1月迄の間に、『おおつごもり』『たけくらべ』『にごりえ』『十三夜』等の名作を次々と書き上げ、この期間をのちの人は「奇跡の14ヶ月」と呼んで、驚きまた称賛し、そして惜しんだ。
この書きに書いた時期の一葉を中心に永井愛作演出・二兎社の『書く女』は作られている。
 参) https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1956349118&owner_id=3341406

もう1つ、井上ひさし作・こまつ座の『頭痛肩こり樋口一葉』も掲げておこう。
 参)https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1949632862&owner_id=3341406

通りの右側に鷲(おおとり)神社が見えてくる。酉の市の時には賑わうのだろうが、平日の朝は静かだ。
ここに一葉文学碑、小説の師であり淡い思いを抱いた半井桃水(1861-1926)に宛てた未公表書簡を彫り込んだ「玉梓乃碑」がある。
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一葉の書は何が書いてあるか判らなくとも溜息が出る程に美しく流麗である。
「上野も澄田川も花は此頃と承り申候。くるわの桜はまだ盛とは申難けれど、きのふ今日、 人の出はおびただ敷ことに御坐候。
ちと御出まし遊されては如何や。此長閑き空を御引籠りがちにては、御身の為いとどおよろしかる間敷とご案じ申され候。
此のほどは久々にての拝姿にうれしさのさきだちて何事も申そびれ、なくなく御詫をも申上げ、お別れに相成り、いとどむね安からずぞんじ暮し居候。」
何とかかんとか読んだのだが、自信はない。
読み易いようにと、句読点や濁音の点は私が書き足した。

この碑の建立の主旨を、隣の小さな石のプレートに以下のように書き込んである。
「『塵中につ記(ママ)』に、一葉は明治二十七年三月二十六日に桃水を訪ねたと記されているが、この書簡はその直后のものであろう。”君はいたく青みやせてみし面かげは何方にか残るべき”とにつ記にも記してあり、書簡の行間にも一葉の心が滲みでているやに推われる。」

1894(明治27)年3/26は確かにこの龍泉寺町にいた頃で、5月には、商売も行き詰まり、早や丸山福山町に越している。
桃水との関係は、「萩の舎」(後出)内のスキャンダルのせいで明治25年6/22、一葉自ら決心して断絶していた。が、心中では会えない辛さに悶々とする日が続いていたようだ。

こちらは一葉と関係はないが、賽銭箱の上に愛きょうのある「なでおかめ」の木彫面が民間信仰の対象として飾られている。
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「おでこをなでれば賢くなり
目をなでれば先見の明が効き
鼻をなでれば金運がつく
向って右の頬をなでれば恋愛成就
左の頬をなでれば健康に
口をなでれば災いを防ぎ
顎から時計回りになでれば物事が丸く収まるという」
と説明板があり、皆、思い思いの場所をなでて、面はあちこち黒ずんで光っている。
私もなでてきた。

国際通りを更に北へ行くと左手に大音寺が見えるが、それはやりすごし、竜泉の角で細い道を右に入って少し歩くと、「樋口一葉旧居跡碑」に出会う。

『たけくらべ』の第1章冒頭にこの辺りの描写がある。
「廻れば大門の見返り柳いと長けれど、お齒ぐろ溝に燈火(ともしび)うつる三階の騷ぎも手に取る如く、明けくれなしの車の行來(ゆきゝ)にはかり知られぬ全盛をうらなひて、大音寺前と名は佛くさけれど、さりとは陽氣の町と住みたる人の申き(後略)」。
「お齒ぐろ溝(おはぐろどぶ)」とは、吉原全体を囲む堀の事で、主人公の少女美登利(みどり)の姉は、妓楼「大黒屋」の遊女で、美登利も大黒屋の寮に暮らしている。
すれ違ってばかりの淡い恋の相手、僧侶の息子信如(しんにょ)、彼の寺「龍華寺」のモデルは『たけくらべ』冒頭に出てくる「大音寺」だと考えられている。

この例のように、『たけくらべ』には界隈の様子やそこに住む人々の有様がありありと描かれている。

次の次の角に、一葉の旧友佐佐木信綱の歌二首による「たけくらべ記念碑」を有する一葉記念公園があり、その東向いに改築された一葉記念館が建っている。
現在は「下谷龍泉寺町転居125年記念〜下谷龍泉寺町(ものがたりのまち)の樋口一葉」展を開催中。

 会期 2018年11/10〜2019年1/27

一葉と母妹は、先に書いたようにここに転居し、店を開いて貧しい暮らしをした。
生活のため、一旦は小説を諦めた期間もあった。
展示されているのは、出生からこの頃の一葉を想像させる様々なもの。
山梨から駆け落ちして江戸に出てきた両親や兄弟姉妹の写真。
当時の龍泉寺町はジオラマで作られている。
また、母によって進学を断念させられた一葉が、歌や書,古典を学んだ「萩の舎」(塾長中嶋歌子)での交流を示すもの。
一葉は24年の生涯で4,000もの和歌を詠んだらしい。
「仕入れ帳」は、一葉が自身これにメモをしながら、店で売る荒物や駄菓子を買い集めていた足跡を彷彿とさせる。
多数の草稿、書簡、同人誌、複製の文机、一葉原作物語のジオラマや書画、それらは全て「奇跡の14ヶ月」へと流れ込み、遂には彼女の死へ収斂する。
周囲にいた多くの作家や文化人達が一葉の死を悼み、惜しみ、その後の評価や出版につながっていった様子には、つい涙も出る。
館は講座や読書会等も盛んにやっているようだ。

以下、一葉記念館ホームページ参。
http://www.taitocity.net/zaidan/ichiyo/

またゆっくり時間をかけて観に来ようと思いつつ、外に出た。

館の前の道をそのまま南に下ると、すぐ旧吉原に入る。
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「見返り柳」で土手通り(日本堤)に出て、南東に下る。
ここらは2011年の12月に大学時代の文学仲間と歩いたのを思い出す。
何だか随分昔のような気がしてならない。
スカイツリーが通りの向うに見える。
スカイツリーは2012年2月竣工の筈だが、仲間と歩いた時はどんな様子だっただろうか。

途中から大通りの裏手に入り、並行する「山谷堀公園」を歩く。
ここは、墨田川から吉原に川船(「猪牙船(ちょきぶね)」と呼ばれた)で上がる堀が昔はあったのだが、今は暗渠となり、その上は埋め立てて公園になっている。
堀には「地方橋」から12もの橋が架かっていたそうで、今でもその橋頭と地名だけが残っている。

都立浅草高校から脇に入り、今戸神社に寄ってみる事にした。
ここは「招き猫」発祥の地だそうで、本殿の中に大きな招き猫がいる。
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また、新選組の沖田総司終焉の地との石碑も立っている。

墨田川に出た所が山谷堀で一番南の「今戸橋」。
「待乳山聖天(まつちやましょうてん)」はそのすぐ近くだ。「真土山」と書く事もあるらしい。
寺は本竜院と言って、小高い丘の上にあり、裏側から入ると、上迄昇るためだけの2人乗りスロープカーがある。使用料はタダ、自分で開け閉めし、ボタンを押して出発する。行程は10m程。
境内の上からは、墨田川の向うにスカイツリーが間近のように見える。
聖天様は、元々はインドのガネーシャという天部の神様だとの事。
待乳山聖天のシンボルは二股大根と巾着で、それをデザインしたものがあちこちに見られる。
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夫婦和合と商売繁盛の御利益があるらしいが、どうも私には関係が薄い。
何故ここへ来たかと言うと、このすぐ近くで池波正太郎が生まれているのだ。
表正門の下の左側に生誕の地碑がある。
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1923(大正12)年1/25に池波正太郎は浅草区聖天町1丁目(現在の台東区浅草7丁目)に生れたのだが、この年の9/2に関東大震災が起こり、生家は壊れて一家は埼玉県に逃れた由。
したがって、正太郎自身、「聖天町と生家の記憶はない」との事だが、「大川(墨田川)と待乳山聖天宮は私のふるさとのようなものだ」とも言っていて、彼の心中の江戸の町の風景はここに始まっていると言って間違いないだろう。

このあと、彼の足跡を追って、台東区立中央図書館にある「池波正太郎文庫」その他に寄る計画だったが、このペースでは不可能だと、浅草散策の残りは一切諦める事になった。

待乳山聖天から一旦Aホテルに戻り、荷物を取って、次は渋谷である。

途中、浅草3丁目、雷5656会館裏の「トン将」でヒレカツ定食を食べた。
山形豚を使ったトンヒレ肉は柔らかで脂身がなく美味しかった。


(続く)
 
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