(続き)
再び菊坂に降り、下の細い道を辿って樋口一葉の旧宅跡を探す、たくさんある更に狭い脇道を覗きながら。
ようやく見つけたのがこの路地である。手前には拡張したあとがあるから、以前はもっと狭苦しかったろう。
奥にポンプが見えるだろうか。
中に入って撮ると、
入ってきた路地を見返ると、
一葉の借家はここ、と特定はできない。この井戸の辺りである。
きっと一葉もこのポンプを漕いだ事だろう。
1890年9月から1893年7月の間、一葉はこの暗い路地奥の借家に住んだ。
1889年に父が負債を残して死に、長兄はそれより先1887年に結核で没している。
次兄は母と折り合い悪く家を飛び出して、一葉は戸主となる。彼女には婚約者がいたが、解消された。
ここで一葉は母と妹と3人、針仕事等で細々とした暮らしを送った。知り合いに頭を下げては借金を重ね、近くの伊勢屋質店に駆け込む事もしばしばだった。
一葉の暮しが偲ばれる。
奥の石段と周囲は昔のままの風情。
石段を上がって人1人が通るのがやっとの路地裏を歩くと、「鐙坂(あぶみざか)」に出る。
この坂の途中に言語学者 金田一京助(1882-1971)と息子 春彦の旧居跡がある。
盛岡中学時代、京助の2年下に石川啄木がいた。
上京後京助を頼ってきた啄木に、下宿を紹介し、お金を貸し、精神的にも様々に援助を行った。
下宿「赤心館」に啄木を入れたのも金田一、次の「蓋平館」もそうだった。
時には自分の蔵書を売り払っても、服を質に入れても啄木の面倒をみた。
一方の啄木は金銭にも異性関係にもルーズだった。京助の援助がなければ、啄木は名を残す詩人にはなれなかったろう。
11:30過ぎ頃だったろうか、前掲した樋口一葉が通った旧伊勢屋質店に寄ったのだが、オープンが12:30との事で、先に近場で昼食をとる事とした。
すぐ隣のブロックにあった小さな「オステリア・カパンナ」というイタリアンで、日替わりのランチパスタを食べる。
シメジとあさりのパスタ、820円。かなりのアルデンテである。
旧伊勢屋質店は、実は跡見学園女子大学が2015年に買い取って(という表現が正しいかどうか分からないが)、「菊坂跡見塾」と称している。
何にせよ、一葉の縁濃い明治の商家(文京区指定有形文化財)が管理保存される事になったのは大変に素晴らしい。
ここで樋口一葉生誕150周年記念企画展として「一葉と花圃〜二人の見た女学生」を開催しているのは、例会の行程を検討する時点で知っていた。
・会期 11/23〜27
・入場無料
11/23の一葉忌の日から5日間だけの企画で、これにぶつかったのはラッキーな事だった。
「花圃(かほ)」とは、三宅花圃、本名 田辺竜子(1869-1943)、中島歌子の「萩の舎」では一葉の先輩で、のち跡見女学校で学ぶ。
たまたま坪内逍遥の『当世書生気質』を読んで、これなら書けると一気に成した小説『藪の鶯』(1887)が、逍遥の校閲に恵まれ、1888年に出版される事となった。これが、明治以降、女性によって書かれた初の近代小説である。
これで花圃は33円20銭を手にした。実は、これが、極貧の一葉が小説家を目指す事になった直接のきっかけである。
花圃の『藪の鶯』は当時の女学生の会話を活写し、女性の様々なあり方を示そうとした。
自由恋愛を謳歌する者、卒業と同時に結婚を願う者、一身独立を目指す者、学問を得て夫婦共稼ぎを理想とする者等、登場する女学生は様々な将来像をを持っていた。
一方一葉は処女作『闇桜』(1892)で、女学生千代が、同級生からの飛語で幼馴染への恋心を自覚し、内面から崩壊していく様を描いた。彼女を追い詰めた女学生とは何だったのか。
一葉がこれを師 半井桃水に見せると、彼は自身が起こしたばかりの同人誌「武蔵野」に掲載した。残念ながら「武蔵野」誌は殆ど人の目に触れなかった。
半井は東京朝日新聞に発表させるべく働きかけるが、実現せず、一葉は原稿料を得る事はできなかった。
しかし、半井は一葉の才能を高く評価し、自分の様な通俗作家が育てる器ではないと認識したのだ。
旧伊勢屋質店内では、ジオラマも使う等し、同時代の商家の様子を見て回る事ができる。
また、一葉と伊勢屋の関係を彼女の日記から追う事で、家族の暮し振りを生々しく想像させてくれた。
(続く)
ログインしてコメントを確認・投稿する