12/14(土)、賀茂真淵記念館講座「男爵 赤松則良と西周、そして森鴎外〜いわゆる『舞姫』事件の顛末について」の第1回(全3回)を聴く。
講師 木村弘之
木村弘之は先頃迄「磐田市歴史文書館」館長だったが、役職定年、その後も磐田市の文化発掘と発信に携わっている。(特に古文書の読解が専門領域だったと思う。)
現在は、「旧赤松則良記念館」の運営に関わり、浜松市史蹟調査顕彰会の会員でもある。
私は2021年12月〜2022年2月、本館講座「渋沢栄一と赤松則良」(全3回)を聴いている。
以下参
・第1回(2021.12.5記)
https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1981026302&owner_id=3341406
・第2回(2022.1.9記)
https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1981319129&owner_id=3341406
・第3回(2022.2.6記)
https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1981536266&owner_id=3341406
◆はじめに
赤松則良(幼名 大三郎/1841-1920)は海軍に所属する傍ら、明治初年に磐田を訪れ、磐田原台地の開墾に携わり、磐田の茶園事業先駆の一人として働いた。
1887(明治20)年には男爵、海軍中将となり、1897(明治30)年からは貴族院議員として活躍した。
「旧赤松則良記念館」は、晩年に彼が居住した邸宅跡に建てられた施設で、赤レンガ塀は当時のまま、邸内には復元された蔵等がある。本年は開館20周年を迎え、赤松則良と赤松家を顕彰する企画を進行中である。
長いタイトルになったが、今回は赤松則良と西周(にしあまね)、森鴎外を取りあげている。
ついては、3者の関係を再確認しなければならないが、そのためには、更に遡り、佐藤泰然と林洞海から掘り起こさねばならない。
◆赤松則良と佐藤泰然家、林洞海家とのつながり
佐藤泰然(たいぜん/1804-72)は江戸末期の蘭方医で、順天堂大学の基礎を創った人物。
9歳年下の林洞海(はやしどうかい/1813-95)は佐藤と師弟関係にある。
小倉藩士 洞海は20歳頃江戸に出て、蘭医塾で泰然と知り合い、伴に長崎に行きオランダ医学を学ぶ。江戸に戻り、泰然の開いた和田塾(のちの順天堂大学)を助ける。
その後、泰然の娘 つると結婚、和田塾を引き継ぐ。のち、幕府の医師に登用され、法眼(トップ2位)に迄なる。
林家の長男 紀(つな)のち研海(けんかい/1844-82)は長崎で蘭学を学び、1862(文久2)年には幕府の命によりオランダ留学、医学を学んだ。留学同行者には榎本武明(1836-1908)、赤松則良、西周(1829-97)らがいた。
留学で培った人間関係は、帰国してからも更に強い絆に発展する。
林研海の奨めによってであろう、彼の妹 田津(たづ)は1867年榎本武明と結婚、同じく貞(てい)も赤松則良と結婚する。3人は義兄弟の間柄となった。
また研海の弟 紳六郎はのち西周の養子となっている。
赤松は1868(明治元)年に帰国、幕臣としての留学であったため、戊辰戦争が勃発すると、榎本武明と合流し江戸脱出を試みるが失敗、徳川家臣らと伴に静岡藩に移り、静岡藩沼津兵学校陸軍一等教授方に就く、西周は同校初代校長になっていた。
その後、勝海舟の要請に応じ、赤松らは明治政府に出仕する事となる。
林研海はのち陸軍軍医総監、軍医本部長となる。
赤松則良は海軍主船局長、海軍中将、佐世保続いて横須賀鎮守府司令長官となり、前述の通り1887(明治20)年男爵となった。同年海軍中将となり、1893(明治26)年退任、磐田へ本籍を移して邸宅建造、1897(明治30)年〜1917(大正6)年の間は貴族院議員として活躍した。
◆西家と森家のつながり
西周(にしあまね/1829-97)の父 覚馬は津和野の藩医 森家の次男として生まれ、西家に養子として出て西時義と名乗った。
森家の長男立本は早世、三男は出奔、そのため、森家には跡取りがいなくなってしまう。
のち、浪人 佐々田綱浄とキヨが夫婦養子として森家に入る迄そうした断絶状況が続く。
そのため、森家から西家へ養子に出た次男 時義の長男 周は、苗字こそ違えども、森家の血をひく者として、森家を支えなければならない立場と強く自認していた。
一方、森家に夫婦養子として入った佐々田綱浄は、森玄仙、更に白仙と名を替えた。
白仙の娘ミネ(峰子)は吉次静泰を婿として迎える。静泰はのち森静男と名を替えた。
森静男とキヨの長男が森林太郎(鴎外)である。
森林太郎は西周の33歳年下。西周は、森家、殊に林太郎の面倒をよく見た。ただ、林太郎の方は西周を鬱陶しく思っていた節がある。
同じ賀茂真淵記念館で杉本完治による鴎外関連講座から、西周についての部分を参考迄に拾って拾ってみた。
・賀茂真淵記念館講座 「森鴎外の人と文学〜鴎外六〇年の軌跡」 第1回(2019.6.14記)
https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1971888614&owner_id=3341406
◆赤松則良の子供達
全17人。
・長男 範一(1868生まれ)
・長女 登志子(1869) 1889(明治22)年森鴎外と結婚、1890年離婚。
・六女 曽代子(1880) 浜北の庄屋 横田保兵衛に嫁す。
・三男 盛三(1884) 何(が)須磨子と結婚、何家養子となる。
・十女 浪江(1894) 山崎淳一郎に嫁す。
・七男 酉乙(1897) 西三保子と結婚、西家養子となる。
第2回は来年1/11、第3回は2/8の予定。
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