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2025年04月29日06:46

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【特別編】前田日明のYouTubeにおける問題提起について(16)

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武藤敬司、小島聡、ケンドー・カシンが退団した02年は新日本プロレスの創立30周年記念イヤーにあたり、5月2日東京ドームで「闘魂記念日」と銘打った記念大会が開催されました。

試合前の記念セレモニーではシークレットゲストで猪木の前夫人である倍賞美津子が登場、さすが日本を代表する女優だけに全部持っていってしまった感じで猪木とリング上で対面、猪木も大照れでした。

全日本女子プロレス、大日本プロレスの提供試合もあり、ZERO-ONEで活躍していた橋本真也&小川直也組の「OH砲」も登場、天山広吉&スコット・ノートン組と対戦、橋本のバックドロップと小川のSTOの合体技「俺ごと刈れ!」から橋本がノートンを体固め。

IWGPヘビー級選手権試合は4月5日東京武道館で安田忠夫を破り新王者となった永田裕志が高山善廣を左右のハイキックからの体固めで破り王座初防衛。

この日は最終試合で蝶野正洋とノアの三沢光晴がシングルマッチ30分1本勝負で対戦、三沢が卍固めを出せば蝶野も同じ技で返し、蝶野が河津落としを決めれば三沢も河津落としで応戦、三沢はジャンピング・ネックブリーカードロップを見せるなどBIの遺伝子が交錯する試合となりましたが30分時間切れ引き分けとなりました。

02年5月31日、世田谷区野毛の新日本プロレス道場にて長州力が記者会見を開き、新日本プロレスを退団したことを発表した際に、新日本プロレスのオーナーであるアントニオ猪木を痛烈に批判しました。

「どうしても確執の大きな問題となるのは、会長であるアントニオ猪木になります。でもこれはあくまで一個人の問題。どっちが正しいどっちが悪いというものじゃなくどうしても自分としてはどこかで許せないものがあって、ドンドンドンそういうものが大きくなってきなんだろうと思います。」

「あの人の弟子とかいない、神輿を担ぐ人間はいたかもわかんないけど、オレが入門して30年近くあの人が唱えたもので、出ていくものは大きいけど帰ってきたものは何もないですからね。」

「オレは常にアントニオ猪木に脅えてる人間だと思いますよ、中傷でもなんでもないですよこれは。じかに彼というかアントニオ猪木と話してこの人はね、最終的にボクから見ればコンプレックスはありますよ。ボクが見る限りですよ、違うかもしれないけど、この人は何かしらコンプレックスを持ってますよ、ジャイアント馬場が最後まで信用しなかったというのは何となく分かる気がしますよね、信用しない理由はわかんないけど、最後まであの人を信用しなかった。」「オレの中ではもうあの人には感謝すらないですね」

89年6月に猪木が参院選にスポーツ平和党から出馬表明し政界進出し(7月に当選)、坂口征二が社長に就任、長州は新日本プロレスの現場監督に就任し役員だった専修大学の先輩にあたる永島勝司と共に新日本プロレスの舵取りをし、90年代の新日本プロレスを支えてきました。

猪木は90年2月10日東京ドーム大会が馬場の全日本プロレスの協力により大成功、さらにその後の4月13日全日本プロレス、新日本プロレスが協調路線を敷いたWWFの「日米レスリングサミット」が大成功すると、馬場、坂口ラインにジェラシーを感じ新日本プロレスの中での発言権がなくなると危惧し、90年7月には代表取締役会長として新日本プロレスにわずか1年であっさり戻ってきてしまいました。猪木の会長就任でテレビ朝日から出向していた元東映役員の辻井博会長が退任させられました。

社内の辻井、坂口体制で新日本プロレスの資金が自分の思うように使えなかったことに業を煮やした猪木は、借金のカタに最大のタニマチである佐川急便の佐川清会長に新日本プロレスの議決権を有する51.5%の自身の持ち株を差し出していましたが、佐川会長から「委任状」を預かっていた猪木は新日本プロレスを意のままに動かしたく議決権を使って新日本プロレスに戻って来た訳です。

90年12月、イラクで「平和の祭典」としてプロレスの大会を開催。イラン・イラク戦争での日本人人質解放を成功に導いた猪木は一躍、日本のヒーローとして世間の注目を浴びました。

この間、93年6月には猪木の秘書だった佐藤久美子の告発により猪木の脱税や金銭問題、女性関係について暴露する手記が週刊現代に連載され「猪木スキャンダル」が起きたこともあり猪木は95年7月の参院選に現職で出馬しましたが落選。「猪木スキャンダル」の時は先日亡くなられた過激な仕掛人、新間寿氏がスポーツ平和党の幹事長におり、佐藤の側に回り猪木を激しい口調で非難。

「アントニオ猪木のPKOとはPはパンパン、Kはコイコイ、Oは●●●●●」など下ネタ全開で猪木をこき下ろしています。

猪木は落選後、再びオーナーとして新日本プロレスに係わり始め現場に介入することで、これまで現場を仕切っていた長州と対立が生じていました。

95年4月、猪木が北朝鮮で開催した「スポーツ・平和の祭典」で負った新日本プロレスの赤字は同年10月9日東京ドームでのUWFインターナショナルとの全面戦争で補填、猪木の尻拭いは長州がやってきた訳です。

98年4月4日東京ドームでの猪木引退試合による収益から退職金代わりにとアントンハイセルで発生した猪木個人の借金を相殺してもらった猪木は「自由の身」に。

しかしそれでは飽き足らず同年10月には猪木は佐山聡らと共に格闘技団体UFOを旗揚げし新日本プロレスに再び関与。00年に総合格闘技PRIDEのエグゼクティブプロデューサーに就任し、新日本プロレスの所属レスラーを総合格闘技のリングに上げる強権発動を度々しています。その当時の猪木のブレーンは「PRIDEの怪人」こと任侠の世界に生きた百瀬博教で、猪木は百瀬の意見に全面的に耳を傾けていました。

02年1月に武藤敬司が新日本プロレスの有力なスタッフを引き抜いて全日本プロレスに移籍する事態が起きたことで、全日本プロレスとの交流を推進していた長州は全責任を取らされ現場監督から解任され、永島は退職に追い込まれました。

02年3月11日猪木の最大のタニマチだった佐川清会長が死去、佐川会長が持っていた新日本プロレスの51.5%の株式は遺言書により猪木に戻されることになります。

猪木の命で蝶野が現場責任者に就任するも、長州は試合会場から姿を見せなくなり、新日本には辞表を提出したことで、5月2日の東京ドーム大会のカードから外され、先に退社していた永島が設立していた「リキナガシマ企画」に合流するのではという噂はありました。

長州が猪木に対して公然と批判した理由は、新日本プロレスの興行が頭打ちにもなっているのに係わらず、猪木がロサンゼルスに「ロス道場」を設立し、そこへ不透明な金が流れていたことに対する不満もありましたが一番の理由は自身が現場監督として築き上げたことを猪木に潰しにかけられに来たことでした。

長州の言う猪木の「コンプレックス」には様々な意味があると思う。確かに猪木の留守の間に長州が現場を仕切ったことで、自身が出馬前より新日本プロレスは潤っていったが、猪木にしてみれば新日本プロレスはあくまで自分の会社で合って、政界に進出している間は坂口と長州に一時的に任せていた過ぎません。

だが坂口、長州ラインが存在が大きくなるにつれ自身の存在を脅かすのではという懸念がありました。99年6月には坂口に代わり猪木に対するイエスマンである藤波辰爾を社長に据えて傀儡とし、現場介入を繰り返していきました。  

過激な仕掛け人と言われた新間氏にも同じことが言えますが、新間も最初こそは猪木を立てて、猪木自身もあくまで自分の部下として扱ってはいたが、仕掛人として表舞台に出てきてWWF会長に就任するなど注目が集まるなど新間の存在が大きくなるにつれ、猪木にとって新間は邪魔な存在になっていき、83年に起きた新日本プロレスの社内クーデターで、猪木は「新間斬り」をしています。

そう考えると猪木は長州が新日本プロレス内で結束を固められ、新日本プロレスが自分の自由にならなくなることに怖れを抱いていたのではないでしょうか?

長州が公然と猪木を批判したことはこれが最初で最後でした。長州からしてみれば猪木の忌み嫌う馬場元子の全日本プロレスとの対抗戦や大仁田厚の起用など、猪木の意に反することもしてきたのも事実でしたが、興行的成功を収めたことで猪木には文句は言わさない、という自負はあったはず。長州がそういう気持ちを持ったことはむしろ当たり前です。

だが、猪木は長州の仕事を認めようとしないどころか、自分を現場監督から引きずりおろして、退社するまでに追い込んだ。長州の猪木批判は新間と同じ思いで、「誰のおかげで現在の新日本プロレスやアントニオ猪木があるんだ!」という本音から出たものではないかと思われます。
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