第371戦、12月25日発売号●【予想】阿修羅・原、ドラゴンフェスティバルに来場、藤波に挑戦を表明(78年12月26日新日本プロレス後楽園ホール)【正解】全米進行作戦を前にベルトを強奪されたバックランド、WWFヘビー級選手権試合、ボブ・バックランドvsアイアン・シーク(83年12月26日=現地時間ニューヨークMSG)27日の出来事として採り上げ。
※参考 2019年12月25日発売号は○【予想】74歳の鉄人ルー・テーズ最後の試合、蝶野正洋に敗れる。(90年12月26日新日本プロレス浜松アリーナ)【正解】鉄人ルー・テーズが74歳で生涯ラストマッチ敢行(同)この時点での対戦成績は116戦23勝93敗、勝率198。2013年12月25日発売号は猪木、ダラスで未来日のスティーブ・ウイリアムスと初対決。(85年テキサス州ダラス・リユニオンアリーナ)
【予想解説】78年はまさに「ドラゴン・イヤー」でした。1月23日(現地時間)ニューヨークMSGでカルロス・ホセ・エストラーダを初公開のドラゴン・スープレックスホールド(飛龍原爆固め)で破りWWWFジュニア・ヘビー級王座を獲得。
その後アメリカで同タイトルの防衛戦を2度行った後、3月3日群馬県高崎市体育館での「ビッグ・ファイト・シリーズ」開幕戦で凱旋マッチを行い、マスクド・カナディアン(ロディ・パイパー)をドラゴン・スープレックスホールドで降し、試合後の勝利者インタビューで「アイ・ネバー・ギブアップ!」とコメント、これまでの新日本プロレス、というより日本プロレス界には全くいなかった24歳の新星が誕生、ドラゴンブームを巻き起こしています。
藤波はこれもまた前例のない「日本とアメリカを股にかけて防衛戦を行うチャンピオン」として活躍、「ビッグ・ファイト・シリーズ」中に渡米、3月20日MSGの定期戦でジプシー・ロドリゲスを相手に王座を防衛した後直ぐに日本に戻ってシリーズに復帰するというタフネスさを見せつけました。
国内初の防衛戦になる予定だった3月30日蔵前国技館でのカネックとの一戦はカネックが「敵前逃亡」した為流れましたがシリーズ終了後はロサンゼルスへ飛び4月8日にはエル・ゴリアスを撃破して王座防衛。
年々規模が縮小していった「ワールド・リーグ戦」に代わり新しい春の祭典となった「MSGシリーズ」に出場、決勝リーグ戦に進出し猪木との師弟対決や坂口征二、長州力の同門対決、アンドレ・ザ・ジャイアントとの初対決などを実現させました。
7月27日の「サマー・ファイト・シリーズ」最終戦の日本武道館で国際プロレスを離れフリーとなった剛竜馬の挑戦を受けてジャーマン・スープレックスホールドで勝利。シリーズ終了後は8月4日にロサンゼルスでアーマンド・ゲレロを相手に防衛した後は修行の地メキシコに登場、8月13日メキシコシティ・パラシオ・デ・ロス・デポルテスでは「メヒコの鉄人」レイ・メンドーサを2−1で破り9度目のタイトル防衛。
パラシオでの一戦はテレビ朝日「ワールドプロレスリング」放送クルーが現地で収録、日本のテレビ局が初めてメキシコからルチャ・リブレの中継を行った記念すべき大会で先日亡くなられたグラン浜田さんの試合も放送されました。
10月20日大阪・寝屋川市市民体育館でチャボ・ゲレロとV10を賭けて闘い、ドラゴンロケットを放った際に場外の椅子の金具の部分に接触して額をザックリ切って大流血に見舞われましたが1−1から血染めのコブラツイストでチャボからギブアップを奪いました。
新日本プロレスではシリーズ全日程終了後の12月26日後楽園ホールで「ドラゴンフェスティバル」というファンの集いを開催、1,000人の観衆が詰めかけました。
試合はなくトークショー、藤波と女性ファンの椅子取りゲーム、ファン参加のバトルロイヤル(レスラーは藤波、荒川真、栗栖正信が出場)、レスラーの身体の上にファンを何人乗せられるか、の耐久力ゲームなどあっという間の楽しい2時間半でした。
この日ゲストとして12月16日蔵前国技館に続いて国際プロレスの原進(この翌日の27日に作家・野坂昭如氏の命名で「阿修羅・原」のリングネームが発表されている)とフリーの剛が来場し藤波を激励、原は改めて藤波に対戦表明をしています。
この日後楽園ホールのドラゴンフェスティバルの席上、新間寿営業本部長が来年(79年)10月に国際プロレスのエースで日本リーグ争覇戦の優勝者、IWA世界ヘビー級王者のラッシャー木村とプレ日本選手権優勝者でありNWFヘビー級王者の猪木の対戦を中心とした新日本プロレスと国際プロレスによる「統一日本選手権シリーズ」を開催。その中で藤波vs原も実現すると発表があったものの、実現には至りませんでした。
【正解解説】83年12月26日MSGでのバックランドvsIシークのWWFヘビー級選手権試合は2012年12月26日発売号に次いで2度目の採り上げでした。
83年12月26日ニューヨーク・MSGの定期戦でWWFヘビー級王者バックランドがIシークに敗れ、王座転落しました。
バックランドは2日前の12月24日、ペンシルバニア州アレンタウンでのテレビマッチでIシークとノンタイトルで対戦。
Iシークのマネージャーであるフレッド・ブラッシーが金属製のトレーニング器具をバックランドに投げつけて、バックランドは肩を強打。
バックランドのマネージャーであるアーノルド・スコーランが救出に入ってブラッシーと殴り合いとなり試合はノーコンテストとなりましたがバックランドは左肩に大きな怪我を負いました。
そして迎えた本番のタイトル戦、Iシークはバックランドの肩に集中攻撃。そして、痛めた肩越しにキャメルクラッチ。
リング中央でガッチリ決められてしまいバックランドは動けず、セコンドにいたスコーランがタオル投入。
8分13秒、TKO勝ちでIシークが勝利。ベルトが移動し新王者となりました。
78年2月20日、ニューヨークMSGでスーパースター・ビリー・グラハムを破って王者となって以来、日本で猪木に短期間王座を明け渡した(現在ではこの記録は公式から削除されている)以外はアメリカ本国での王座移動はなく5年10か月に及ぶ長期政権を築いたバックランド時代もついに終焉を迎えました。
そして、翌84年1月23日に予定されているMSG定期戦では、アメリカにおいてはAWA圏で試合をしていたハルク・ホーガンが挑戦者として名乗りを上げました。
闘病生活を送っていたビンス・マクマホン・シニアに代わり実権を握ったビンス・マクマホンによる全米制圧のプロジェクトがベールを脱ごうとしていたのです。
※対戦成績は371戦59勝312敗、勝率159。
2024年単年での対戦成績は50戦4勝46敗、勝率080。(完)
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