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2025年02月05日07:18

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週プロ流智美あの日あの時予想2024年総括(30)

第351戦、7月31日発売号●【予想】「墓堀人」ローラン・ボック、衝撃の初来日第1戦vs木村健吾。(81年新日本プロレス大阪・臨海スポーツセンター)【正解】猪木の日本プロレス離脱を誘導した新聞見出しの功罪、インターナショナル・タッグ選手権試合、馬場&猪木組vsムース・ショーラック&ブルート・バーナード組(70年8月1日日本プロレス熊本市体育館)

※参考 2019年7月31日発売号は○【予想】今回予想に同じ【正解】”墓堀人”ローラン・ボックが戦慄の日本第1戦(今回予想に同じ)この時点での対戦成績は96戦20勝76敗、勝率208。2013年7月31日発売号は二代目タイガーマスク、ファンに初お目見え(84年全日本プロレス蔵前国技館)

【予想解説】78年11月7〜29日の3週間、猪木はボックの招きで西ドイツを初めとした欧州遠征に参加。「欧州世界選手権シリーズ」を行っています。猪木とボックは11月8日西ドイツ・デュッセルドルフ・フィリップスホールで初対戦(欧州世界選手権シリーズの試合時間は4分10ラウンド)、5R3分4秒、猪木の反則勝ち。

2度目は11月12日西ドイツ・ベルリン・トイテュデントホールでの対戦。試合は荒れ模様となり5R1分11秒、両者リングアウトとなっています。

そして迎えた3度目の対戦、11月26日西ドイツ・シュツットガルト・ギルスベルクホールでの欧州世界選手権シリーズ決勝戦、猪木はボックに終始ガードされ、懐に入れず、ボックのスープレックスで投げられて4分10ラウンド判定負けとなりました。

この試合はテレビ朝日で現地収録され、入社2年目の古舘伊知郎アナが初のメイン実況を務めています。古舘アナは「シュツットガルトの惨劇」とこの試合を表しましたが、惨劇というより、ボックが猪木の攻めを受けず、猪木は何もさせてもらえないまま試合が終わってしまった感じでした。

このツアーのプロモーターであったボックは「モハメド・アリと闘った猪木」を呼んで地元のファンの前で叩き潰して見せ、欧州の帝王の座に就こうと目論んでおり、猪木が敢えて仕掛けていかなかったのは、地元のボックに花を持たせる試合だったということでしょう。

しかし、ツアーは興行的には失敗に終わり、ボックは猪木に約束したファイトマネーを全額払うことが出来ず、新日本プロレスに遠征することで「相殺」することになりました。まさに身体で払うといったところです。

ボックは翌79年の「サマー・ファイト・シリーズ」後半戦に特別参加が発表され、シリーズ最終戦の8月2日品川プリンスホテル・ゴールドホールで猪木とのNWFヘビー級選手権試合が発表されていましたが、来日前にシュツットガルト郊外で交通事故に遭ったとして来日がキャンセルされています。(代打としてタイガー・ジェット・シンがワンマッチ参戦し、猪木のNWF王座に挑戦、17分59秒、ノーコンテスト)

また、同シリーズには欧州世界選手権シリーズで猪木を苦しめた64年東京五輪レスリングドイツ代表のウィルフレッド・デートリッヒも参戦する予定でしたが負傷を理由にこれまたキャンセル。

ボックは78年12月16日西ドイツ・ジンデルフィンでアンドレ・ザ・ジャイアントと対戦した際、セメントマッチを仕掛け、アンドレをスープレックスで投げましたが、アンドレのボディプレスを心臓にまともに受け、血栓症にかかり、長期入院しており試合の出来る状態ではありませんでした。

ようやく回復して初来日(78年4月20日、新宿・京王プラザホテルで行われた第1回MSGシリーズの前夜祭のレセプションに来日し、猪木に西ドイツへのオファーをしている、試合はしていない。)したのが81年7月の「サマー・ファイト・シリーズ」7月31日大阪・臨海スポーツセンターで来日第1戦。来日したボックは後髪を伸ばし、交通事故から完全に回復していなかったか身体も弛んでいましたが木村健吾を相手にジャーマン・スープレックス、ダブルアーム・スープレックスを見せて僅か1分35秒、体固めでボックが衝撃的なインパクトのある日本デビュー戦を飾っています。

私が観た外国人レスラーの来日第1戦の中では最もインパクトの強い日本デビュー戦となりました。

【正解解説】 70年夏の日本プロレス「NWAワールド・チャンピオン・シリーズ」は前69年11月に初来日を果たしたNWA世界ヘビー級王者ドリー・ファンク・ジュニアが実弟で初来日のテリー・ファンクと共に再来日。 

7月30日大阪府立体育会館ではドリーが馬場のインターナショナル王座に挑戦(NWA世界ヘビー級王座は賭けられず)、50分を超す激闘の末、1−1から両者リングアウトの引き分け。真夏の冷房のない旧・府立、テレビ中継の照明で40度以上の酷暑の中試合をした馬場は試合後の浴室で脱水症状を起こして倒れ、思わず「お母さーん!」と叫んでしまったというエピソードもあります。

本稿で採り上げられているインターナショナル・タッグ選手権試合は大阪大会の2日後の8月1日に行われており、その後のスケジュールは翌日の2日には福岡スポーツセンターで猪木がドリーのNWA世界ヘビー級王座に挑戦、さらに8月4日東京体育館では熊本大会終了時点でのインター・タッグ王者チームにドリー&テリーのザ・ファンクスが挑戦することになっていました。

言ってみれば熊本のインター・タッグ戦はベルト移動が起きないことを前提になっており力道山時代に来日しているロートルのショーラックとトップ外国人ではないバーナードのタッグでは馬場&猪木組の楽勝は堅いと言われていました。

1本目は22分25秒に両チームリングアウトとなり1−1。決勝の2本目は馬場がショーラックに32文ロケット砲、猪木に繋いでコーナーポスト最上段からのフライング・ニードロップ、とどめにドロップキック、3分25秒に猪木がショーラックを体固めでフォールし2−1で馬場&猪木組のBI砲が9度目の防衛に成功しています。

本稿ではこの一戦を報じた「東京スポーツ」名物であった「赤見出し」が「馬場防衛」であり「馬場・猪木防衛」ではなかったことについて言及し馬場と猪木は同格に非ず、馬場が絶対的エースの扱いで、これを見た翌71年末の猪木の日本プロレス離脱を決意したきっかけになったという結論でした。

猪木は会社の不正を追及すべく会計士である木村昭政を入れて日本プロレス改革に乗り出し、それを上田馬之助が芳の里社長にリークしたことで日本プロレスを追放・除名処分になり、言わば解雇。馬場へのジェラシーはあったにせよ自主的に日本プロレスを離脱した訳ではなく、ましてや1年以上も前の東スポの見出し程度で団体を移ろうと考えることはまず絶対にないと思いますが、前号と同じでそれに下手なツッコミを入れるのはやはり野暮なことかと思います。

流さんの「プロレス古典文学」として有り難く楽しんで拝読させて頂きました。

※対戦成績は351戦57勝294敗、勝率162。
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