81年新日本プロレス「新春黄金シリーズ」に一度は来日が発表されながらWWF入りして来日をキャンセルしたスタン・ハンセンですが、2月16日(現地時間)ニューヨークMSGでの定期戦(観衆22,000人超満員発表)でボブ・バックランドのWWFヘビー級王座に挑戦(60分1本勝負)。
ハンセンは新日本プロレスのリングではバックランドのWWFヘビー級王座に2回挑戦しましたがWWFエリアでの挑戦は76年以来実に約4年ぶり。ハンセンのプロレス人生における大きな転機となったWWFでの王座再挑戦は感慨深いモノがありました。
ハンセンはフレッド・ブラッシーをマネージャーにつけて登場、ハンセンのブルファイトに力負けしないバックランドはハンセンの巨体をダブルアーム・スープレックス、ジャンピング・パイルドライバーで叩きつけていきます。
ハンセンもエルボードロップ、ブレーンバスターで反撃、場外でお互いに鉄柱攻撃の応酬で両者額から大流血。リングに上がり割れた傷口めがけパンチを叩き込んでいくバックランドとハンセン。
しかし、ニューヨーク州アスレチック・コミッショナーは流血には厳しい、レフェリーが試合をストップ、18分22秒、両者ドクターストップの引き分け裁定が降りました。
凱旋帰国を直前に控えたキラー・カーンはドン・デヌーチを7分47秒、ダブル・ニードロップからの体固めで破り、前80年12月29日、このMSGでデビューを飾った谷津嘉章はジョニー・ロッズに11分22秒、回転エビ固めでフォール勝ちしています。
インターコンチネンタル王者ペドロ・モラレスはサージェント・スローターに12分22秒、反則勝ちで防衛。日本遠征を前にしたハルク・ホーガンはリック・マグローを僅か1分31秒、体固めで降しました。
翌月の3月16日(現地時間)のMSG定期戦(観衆22,000人超満員発表)ではバックランドとハンセンのWWFヘビー級選手権試合の再戦が60分1本勝負で行われ、ハンセンはジャンピング・ニーアタックから珍しいアルゼンチン・バックブリーカーを見せました。バックランドもドロップキック、得意のアトミック・ドロップを出しましたが3カウントは奪えず、場外でハンセンに鉄柱に打ち付けられたバックランドはダウン、12分22秒、ハンセンがリングアウト勝ちしましたがルールによりタイトルの移動はなし。
バックランドのマネージャー、アーノルド・スコーランとハンセンのマネージャー、ブラッシーが協議し4月6日(現地時間)MSGで完全決着戦としてケージ(金網)マッチで3度目の対戦をすることが決まりました。
「第4回MSGシリーズ」(5月8日川崎市体育館〜6月4日蔵前国技館)に初来日が発表された「ミスターUSA」ボディビルダー出身の大型黒人レスラー、トニー・アトラスが新日本プロレス遠征から帰国したホーガンと対戦、9分35秒、アトミック・ドロップからの体固めでホーガンからフォール勝ちをしています。
アトラスを売り出す為にホーガンがジョバーに廻る。この世界は持ちつ持たれつ。
インターコンチネンタル王者モラレスはキング・ムーンドッグを4分12秒、体固めで破り王座防衛。アンドレ・ザ・ジャイアントはスローターに6分53秒、反則勝ち。谷津はベテラン、バロン・シクルナに8分35秒、首固めでフォール勝ちしています。
新日本プロレスは「WWFビッグ・ファイト・シリーズ第1弾」が3月26日、清水市鈴与記念体育館で閉幕すると僅か1週間間隔で4月3日、後楽園ホールから「WWFビッグ・ファイト・シリーズ第2弾」(インターナショナル・チャンピオンシップ)が開幕。
ケン・パテラ、カネック、ダイナマイト・キッド、リック・マグロー、ザイール・ビコの外国人レスラーがシリーズ全戦参加。
序盤戦特別参加がタイガー・ジェット・シンと外国人ヒールサイドとして参戦の上田馬之助、中盤戦特別参加がWWFヘビー級王者バックランド、終盤戦特別参加がハンセンと豪華ラインナップが集まりました。
チケットの券面にありますように、メキシコからブラック・キャット、パキスタンからアビット・イスラムが来日。このあたりはIWGPを意識したメンバーになっています。
キャットは中国系メキシコ人で50〜70年年代に活躍したルチャドール、スギ・シトの息子でメキシコでは「クロネコ」のリングネームで試合をしていましたが、まだまだメインイベンターとして通じるレベルではなく、まずはヤングライオンと一緒に前座からのスタートとなりました。
イスラムは来日して練習生となり、野毛道場入り。当時若手達と一緒に撮影した集合写真がありますが生活習慣に馴染まずデビューすることなく帰国しています。
猪木vsアクラム・ペールワン、猪木vsジャラ(ジュベール)・ペールワンで日本には馴染み深い中近東ではありますがやはり既存のプロレスに馴染ませるのはかなり無理があります。
開幕戦の2日前、4月1日、京王プラザホテルでIWGPの発足式が行われています。
マイク・ラベール(アメリカ、NWA第一副会長)、アルフレッド・ジーグラー、ポール・バーガー(西ドイツ)、マックス・クラブトリー(イギリス)、フランシスコ・フローレス(メキシコ、UWA代表)、ヌスラット・アジム、サジャンナン・アジム(パキスタン)のIWGPの趣旨に賛同したプロモーター達が出席。
挨拶に立った猪木は「プロレス界には多くの世界チャンピオンが存在する。誰が真の世界一か、闘ってリアルワールドチャンピオンを決めたい」とコメントしています。
IWGPは世界を6つのゾーン(アメリカ、北米《カナダ》、ヨーロッパ、アジア、中南米、中近東)に分けて予選を行い、各ゾーンの代表2名が決勝リーグ戦に進出、決勝リーグ戦は各プロモーターの地区で持ち回りで開催し、決勝は翌82年秋にニューヨークMSGで行われると発表されています。
開幕戦、4月3日後楽園ホール(観衆2,600人超満員発表) 大会。私はこの興行は会場で生観戦しています。メインイベントは猪木&藤波辰巳組がパテラ&Rマグロー組とタッグマッチ60分1本勝負で対戦、13分9秒、猪木がRマグローを体固めで破りました。
セミファイナルはキラー・カーンとシンがシングルマッチ初対決(45分1本勝負)上田の乱入で僅か3分36秒、Kカーンの反則勝ち。
セミ前はカネック&キッド組という魅力的なタッグチームが実現、木村健吾&ジョージ高野組とタッグマッチ30分1本勝負で対戦、9分43秒、カネックがG高野を体固めで破っています。
坂口征二は上田と4分31秒、両者リングアウトの引き分け。長州力はビコを5分5秒、サソリ固めでギブアップさせました。
この日、ベテランの魁勝司(本名・北沢幹之、当時39歳)が引退試合を行っています。魁は1942年2月15日大分県国東町出身、藤波は同郷の後輩。61年日本プロレスに入門。高崎山猿吉、高崎山三吉、新海弘勝などリングネームをよく変えていました。
66年豊登に誘われて東京プロレスに移籍も67年猪木、柴田勝久と共に日本プロレスに復帰。71年に柴田とメキシコに遠征、新日本プロレスを旗揚げした猪木の依頼で72年に柴田共々新日本プロレスの旗揚げメンバーとして参戦しました。
日本プロレス時代から木村政雄(ラッシャー)、百田光雄、藤波、佐山サトルら数多くのデビュー戦の相手を務めたことで知られています。また藤波は魁を頼って日本プロレスへの入門を直訴しました。
76年12月7日、岡山武道館で木村たかし(健吾)を破って第3回カール・ゴッチ杯争奪リーグ戦に優勝。若手の登竜門のゴッチ杯でキャリア15年の魁が優勝してしまったことで猪木が「若い奴らは何をやってるんだ!」激怒。以後ゴッチ杯は取りやめになり、85年3月に「ヤングライオン杯」としてリニューアル再開するまで実に8年3か月かかりました。
魁は引退試合では永源遙とのタッグで星野勘太郎&木戸修組とタッグマッチ20分1本勝負で対戦し11分53秒、両チームリングアウトで引き分けとなりました。
引退後は旧UWF、リングス、ドラディションのレフェリーを務め、リングス時代にはスパーリングでヴォルク・ハンやアンドレィ・コピィロフに極めさせなかったというエピソードの持主です。
82歳の現在も健在で力道山門下生で現在も存命中なのは魁とグレート小鹿の2人だけになってしまいました。
※観戦チケットをアップ致しました。
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