フロリダで試合をしていたスティーブ・カーンとロサンゼルスがホームリングであるチャボ・ゲレロがオクラホマで開催されていたビル・ワット主催のNWA世界ジュニア・ヘビー級王座決定トーナメントに参加していた、オクラホマのトーナメントの決勝をカリフォルニア州サンディエゴで開催した、というヒロ・マツダの説はいささか無理筋というものです。
「別冊ゴング」80年3月号には決勝戦開催の場所はサンディエゴと書かれていますが、後日の各タイトル変遷史にはフロリダ州マイアミビーチに変わっており、実際には架空のトーナメントだったと思います。
また、ビル・ワットはレロイ・マクガークからオクラホマの興行地盤を円満に受け継いだのではなく、喧嘩別れですからワットがマクガークからNWA世界ジュニア・ヘビー級王座の管理権などないのが普通。よってワットはNWA世界ジュニア・ヘビー級王座決定トーナメントには関与していないと考えます。
エディ・グラハムが中心になって作った「NWAインターナショナル世界ジュニア・ヘビー級王座」は新日本プロレスからの依頼を受けて新たに作ったベルトであり、オクラホマ版NWA世界ジュニア・ヘビー級王座とは無縁でしょう。
当時のNWAの勢力分布図を見ても、EグラハムのCWF、ビンス・マクマホン・シニアのWWF、カナダ・トロントのフランク・タニーらいわゆる反主流派、というより親新日本プロレス派であり(マイク・ラベールのロサンゼルス地区は衰退していた。)客も入れていたしNWA内でも発言力はありました。プロモーターの世界は「客を入れてナンボ」です。
80年新日本プロレス「新春黄金シリーズ」終了後、NWAインターナショナル世界ジュニア・ヘビー級王者の藤波辰巳はフロリダ遠征を敢行。
2月12日(日本時間13日)、フロリダ州セントピーターズバーグ・ベイフロント・センターアリーナで、前王者Sカーンの2度目のリターンマッチを受けました。
藤波のセコンドにはフロリダでミスター・サイトー(マサ齋藤)&ミスター・サト(高千穂明久)組のマネージャーをしていたミスター服部(タイガー)。試合は60分1本勝負で20分19秒、藤波がジャパニーズ・レッグロール・クラッチホールド(回転足折り固め)でフォール勝ちし2度目の防衛に成功。
2月15日(日本時間16日)、フロリダ州ハリウッド・スポーツスタジアムでEグラハムの息子であるマイク・グラハム(74年2月、全日本プロレス「エキサイト・シリーズ」に父エディと共に初来日、77年2月の全日本プロレス「エキサイト・シリーズ」に再来日)の挑戦を受けました。
試合は60分3本勝負、セントピーターズバーグでのSカーン戦で足を痛めた藤波は動きに精彩を欠きました。1本目は9分50秒、藤波がジャパニーズ・レッグロール・クラッチホールド(回転足折り固め)で先制、2本目は5分30秒、Mグラハムの反則勝ち、決勝の3本目は4分25秒、藤波の痛めている足を捕らえたMグラハムが父親譲りの足4の字固め、藤波は堪らずギブアップ。
反則含みではありましたが、2−1でMグラハムが勝利しがベルト移動、藤波は3度目の防衛に失敗、Mグラハムが新王者になっています。
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