78年新日本プロレス秋の陣「闘魂シリーズ」は10月6日、新潟市体育館で開幕。73年以降、同シリーズは第1弾と第2弾に分かれて開催していましたが、この年は第1弾の時期に「ゴールデン・ファイト・シリーズ」を開催、年末には「プレ日本選手権」が予定されていたことから、この年は1回のみの開催となり、翌年以降からも年1回開催となりました。
参加外国人レスラーはクリス・マルコフ、キラー・カール・クラップ、ブルート・バーナード、チャボ・ゲレロ、トニー・ロコ、ジ・エクスキューショナーの6選手。
エース格は新日本プロレス初登場となる「ロシアの妖怪」マルコフ。本名不詳、1940年ユーゴスラビア出身とされています。
レスリングの選手だった父親の指導を受けて60年にヨーロッパでデビュー、バルカン地区の王者となった後、63年にカナダを経由してアメリカのマット界に進出。
ロシアン・ギミックに変身し、ボリス・ボルコフのリングネームで初代ニコライ・ボルコフ(71年4月に日本プロレス「第13回ワールド・リーグ戦」に来日した小柄なレスラー、新日本プロレスのレギュラー外国人である元ベポ・モンゴルのクロアチア出身のヨシップ・ペルゾビッチは2代目)とのボルコフ・ブラザーズで活躍。
60年代中盤よりクリス・マルコフに改名し、インディアナポリス版WWAにてアンジェロ・ポッフォ(ランディ・サベージの父親)とデビルズ・デュオなるタッグチームを結成、ボビー・ヒーナンをマネージャーに従え、WWAの共同オーナー兼トップレスラーだったディック・ザ・ブルーザー&クラッシャー・リソワスキー組の「ブル・クラ」を相手にWWA世界タッグ王座を巡る抗争を繰り広げました。
デビルズ・デュオ解散後の67年11月1日には、WWA提携団体であるAWAで足を負傷したラリー・ヘニングに代わりとしてハーリー・レイスに指名される形でパートナーとなり、王座決定戦を行うことなくAWA世界タッグ王座に就きましたが。2日後の11月3日、イリノイ州シカゴにてパット・オコーナー&ウイルバー・スナイダー組に敗れて王座転落、2日天下のペーパーチャンプに終わりました。
68年にはテキサスのダラス地区の「ビッグタイム・レスリング」に転戦し、フリッツ・フォン・エリックとテキサス・ブラスナックル王座を争っています。
69年4月、日本プロレスの「第11回ワールド・リーグ戦」に初来日。外国人側ではボボ・ブラジル、ゴリラ・モンスーンに次ぐ3番手の扱いでしたが、モンスーンは公式戦で猪木、大木金太郎、それに山本小鉄に金星を許してしまい3敗1分と脱落。
マルコフはダークホース的に星を稼ぎ、馬場に敗れ、猪木と両者リングアウトの以外の失点はなく6.5点でブラジルと並んで外国人側の首位に踊り出ました。
日本側も馬場と猪木が同じく6.5点の同点で首位となり、5月16日の東京体育館での優勝決定戦では4選手による決勝トーナメントとなりました。「馬場、猪木戦遂に実現か?」と期待されました。
抽選により決勝トーナメント第1試合が馬場vsブラジル、第2試合が猪木vsマルコフとなりました。第1試合の馬場とブラジルが30分時間切れ引き分けで両者失格。これで馬場vs猪木戦の夢は途絶えました。
第2試合の猪木vsマルコフがそのまま優勝決定戦となり、猪木が17分45秒、卍固めでギブアップ勝ちし、猪木が待望のワールド・リーグ戦初優勝の相手を務めたことで、日本のプロレス史にその名を残したことになります。
アメリカ帰国後はロサンゼルスでのミル・マスカラスとの抗争を経て、同じユーゴスラビア出身のブロンコ・ルービッチとのタッグチームで活動。フロリダ地区では69年10月25日、サム・スティムボート&サイクロン・二グロを破りNWAフロリダ・タッグ王座を獲得。
翌70年の日本プロレス前年度準優勝という肩書きて「第12回ワールド・リーグ戦」に再来日、この時は伏兵ダッチ・サベージと同じ6点でドン・レオ・ジョナサンの6.5点におよばず決勝進出成らず。日本側も猪木が6.5点、馬場が7点と0.5点差で猪木、マルコフとも2年連続決勝進出は成らず。5月29日、日大講堂で馬場がジョナサンを2−1で破り2年ぶり3度目の優勝を果たしました。
71年にはルービッチと共にテキサス州ダラス地区へ転戦、2月15日、テキサス州フォートワースでミスター・レスリング(ティム・ウッズ)&ジョージ・スコット組を破りNWAアメリカン・タッグ王座を獲得、6月25日、ヒューストンでジョニー・バレンタイン&ワフー・マクダニエル組に敗れ王座転落しています。
王座転落直後の同年7月、日本プロレスの「サマー・ビッグ・シリーズ」に3度目の来日、8月1日、福岡スポーツセンターで馬場のインターナショナル王座に挑戦し、反則含みながら2−0のストレート負けを喫しました。「猪木と名勝負をした外国人を叩き潰す」馬場のやり方はこの時期から存在していたことになります。マルコフの扱いが良かったのは前年の「第12回ワールド・リーグ戦」までで、以降は扱いが悪くなる、というか本来のポジションになったということかと。
馬場、猪木が離脱した後の72年8月「第2次サマー・ビッグ・シリーズ」、の来日時には、9月18日の山梨県甲西町特設リング大会の試合後、同時参加していたブル・ラモスやエル・ゴリアスらとリング外で乱闘事件を起こしています。
これは白人であるマルコフがメキシコ系である彼らに人種差別的な発言や態度にラモス達が激昂したことが原因とされ、この乱闘で、マルコフはラモスに脳天をビール瓶で殴打され、ゴリアスに右耳を食いちぎられたが、報復にゴリアスの左手の親指を噛みちぎり返したといいます。しかし、事件から2日後の9月20日、愛知県岡崎市ではプライベートの喧嘩とビジネスは別物と割り切り、マルコフ&ラモス組は坂口征二&吉村道明組のアジア・タッグ王座に挑戦しましたが2−1で敗れています。
4度目の来日から帰国後はフロリダ地区を主戦場に、72年12月27日、ボビー・シェーン(71年2月日本プロレス「ダイナミック・ビッグ・シリーズ」に1度だけ来日、75年2月にセスナ機で事故死)と組んでジャック&ジェリーのブリスコ兄弟を下してNWAフロリダ・タッグ王座を獲得。
フロリダルートから74年11月には全日本プロレス「NWAワールド・チャンピオン・シリーズ」に5度目の来日。12月6日、新潟市体育館ではザ・デストロイヤーのPWF認定USヘビー級王座に挑戦し1−1から反則負け。
シリーズ最終戦の12月12日の川崎市隊員では馬場のPWFヘビー級王座に挑戦した時は1本目は9分45秒、アトミック・ドロップから片エビ固め、2本目は3分18秒、逆エビ固めと短時間で2本取られてあっさりと2−0のストレート負け、馬場は猪木のライバルとして知られているマルコフの商品価値を下げて帰国させています。
翌75年はフロリダ、アラバマをサーキットして、マーク・ルーイン、サンダーボルト・パターソン、ロバート・フラー、ボブ・アームストロング、ティム・ウッズ、ボリス・マレンコ、ビル・ワット、ダニー・ホッジ、ボブ・ループ、ディック・スレーター、ダスティ・ローデス、ボブ・バックランドらと対戦しました。
76年にはマッドドッグ・バションが主宰していたカナダのモントリオールのグランプリ・レスリングに転戦、7月27日、ケベック州ヴェルダンにてギルス・ポイゾン(ピエール・レ・グラン、バスター・マシューズ、)と組んでザ・デストロイヤー(全日本プロレスに在籍していたデストロイヤーとは別人)&ドクター・ジェリー・グラハム組を破りGWAのインターナショナル・タッグ王座を獲得しています。
77年からはハワイに進出しジョン・トロスやドン・ムラコと抗争、バディ・ローズ&ビッグ・ジョン・スタッドと共闘してアンドレ・ザ・ジャイアントとも対戦。
78年にニュージーランドでレス・ソントンから大英帝国ヘビー級王座を奪取していますがAWA地区でも単発で試合していました。
今回約4年ぶり6度目の来日、新日本プロレスへは初参加、猪木と9年前の名勝負の再現なるか坂口征二とは日本プロレス時代に対戦済、藤波辰巳、ストロング小林、長州力とは初対決になります。(この項続く)
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