第268戦、12月21日発売号●【予想】昭和巌流島の決闘、日本重量級選手権試合力道山vs木村政彦(54年日本プロレス蔵前国技館)【正解】猪木が6度目、最後のプロレス大賞MVP受賞(81年)【参考】2011年12月21日発売号は桜庭和志vsマーカス・コナン(97年UFC−JAPAN横浜アリーナ)2016年12月21日発売号は馬場に敗れたデストロイヤーが日本陣営に加入、馬場&ザ・デストロイヤー組vsサイクロン・ニグロ&ムース・モロウスキー組(72年全日本プロレス後楽園ホール)
連載開始当初の「あの日あの時」は年代も幅広に意欲的に色々なモノを書いており、現在の単なる所有スポーツ新聞スクラップの記事紹介とは内容的にかなり差があるなぁ、と思わされる次第…。
【予想解説】「木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか」(増田俊也著、新潮社刊)という著者が話題を集めている謎の一戦。
日本プロレス史70年の出来事の中から、話題性、歴史的価値、今尚語り継がれているという点でこの話題に勝るものなしと力道山vs木村政彦、昭和巌流島の決闘を予想しました。
54年2月19日〜21日の蔵前国技館3連戦で幕を明けたベン&マイクのシャープ兄弟を招いての日本初のプロレス国際試合は大盛況に終わりましたが、同年11月、力道山のパートナーを務めた「鬼の木村」、「木村の後に木村なし」と言われた木村政彦が力道山に挑戦を表明。「力道山のプロレスはジェスチャーの多いショーだ。私は負け役をやってきたが真剣勝負では力道山には負けない、挑戦を受けろ」とアピール。力道山はこれを受諾し、11月27日、力道山主演映画「力道山怒濤の男」を撮影していた松竹大船撮影所で調印式が行われました。
試合は日本重量級選手権試合、61分3本勝負。レフェリーはハロルド登喜、1本目は静かな立ち上がりとなりましたが木村の蹴りが力道山の太腿の付け根にチョコンと入りました。そこから展開が一変、力道山は激怒していきなり張り手を木村の顔面に叩き込み、不意を付かれた木村はダウン。ダウンした木村の顔面に力道山はリングシューズで蹴りを入れていきました。
木村は戦意喪失してダウン、15分49秒、レフェリーストップで力道山が勝ち、2本目は試合放棄で2−0で力道山がストレート勝ちとなっています。
謎の多い試合として知られていますが、何故あのような凄惨な結末に終わってしまったかというと、力道山のプロレスをショーだと表向きには批判していた木村が裏では力道山との3連戦を行い、お互いに儲けようと提案、力道山は提案を飲んだふりをして木村をリングに上げて急所を蹴ったと揚げ足を取り騙し討ちのように潰してしまったということのようです。
背景には「ショー、負け役」と言ったプロレス八百長論を木村が言い出したことに対する制裁の意味とプロレスで世界を狙う力道山が木村と同格であってはならないという意識があったからだと思います。格闘家としての木村が弱い訳がなく、真剣勝負で闘えばおそらく力道山を裸絞めや後にキムラロックと言われた腕絡みで決めてしまうことは容易だったと思いますが、力道山を信用してリングに上がった木村は仕掛けられるとは考えておらず、無防備状態でいきなりナマの張り手を食らって気がついたら負けていた感じではなかったでしょうか?
柔道関係者からすれば「あの木村先生が力道山ごときに負けるなんて」と考えるのは当然の話ですが、力道山の不意打ち、騙し討ちが真相だろうと考え、力道山を商売に利用して自分も儲けようと思った木村の負けだった、ということでしょう。
【正解解説】12月18日、東京・銀座キャピタルホテルで、東京スポーツ新聞社制定81年度のプロレス大賞の選考会が開催され、81年度のプロレス大賞が決定しました。
最優秀選手賞(MVP)は猪木が2年連続6度目の受賞、2位の馬場、鶴田の格2票を大きく引き離し16票で単独首位。NWFヘビー級王者のままタイトルを返上し、世界統一に向けてIWGPに舵を切り出した、第4回MSGシリーズ優勝などが評価されました。
年間最高試合賞(ベストバウト)は1月18日、全日本プロレス後楽園ホールでの馬場vsバーン・ガニア(馬場3,000試合連続出場突破記念試合、AWA世界ヘビー級、PWFヘビー級ダブルタイトル・マッチ)が11票で受賞、次点が8点で4月23日、新日本プロレス蔵前国技館での猪木vsスタン・ハンセンのNWFヘビー級王座決定戦。
最高殊勲選手賞(準MVP)は鶴田が11票を集め受賞、2位以下は猪木(4票)馬場(3票)、藤波辰巳(2票)。猪木にMVP投票をしなかった選考委員がこちらに投票したことになります。1月にアブドーラ・ザ・ブッチャーを破り3か月ぶりにUNヘビー級王座を奪回、以後年間6度の防衛、馬場と組んでのインターナショナル・タッグ王座もこの年は王座転落もなく年間6度の防衛を果たした安定した実力者ぶりが評価対象。
最高タッグチーム賞は12票を獲得した猪木&藤波組が初の受賞、次点のインターナショナル・タッグ王者チームの馬場&鶴田組が2票しか入らなかったことを考慮すればダントツ。ヘビー級に転向した藤波が「第2回MSGタッグ・リーグ戦」で準優勝を果たしたポイントが大きかったか。6票が棄権になったのは残念でした。
殊勲賞は3度目のアメリカ修行から凱旋帰国した天龍源一郎が14票で受賞、交通事故の後遺症が出て途中帰国したディック・スレーターに代わりビル・ロビンソンと組んで7月30日、後楽園ホールで馬場&鶴田組のインターナショナル・タッグ王座に挑戦、「猪木の技」と日本では出していなかった延髄蹴りを見せ、吹っ切れたファイトぶりで「プロレス開眼」、10月6日には仙台・宮城県スポーツセンターでリック・フレアーのNWA世界ヘビー級王者に初挑戦、2−1で敗れましたが健闘していた点を評価されました。次点は全て新日本プロレス勢で藤波、長州力、タイガーマスクが各2票。
敢闘賞はラッシャー木村、81年は所属団体だった国際プロレスが崩壊するという憂き目に遭いましたが国際プロレスが活動していた1〜8月はIWA世界ヘビー級王者として5度の防衛を果たし最後まで職責を全う、団体崩壊後は国際軍団のエースとして新日本プロレスに乗り込み、猪木と激闘を展開した点が評価されています。ちなみにR木村は11票で次点が同じ国際軍団のアニマル浜口が2票差の9票。新日本勢を相手に闘志溢れる試合ぶりを見せましたが、4月に肝炎に罹り欠場、団体の終焉に居合わせてなかったのがマイナスポイントだったか?
技能賞は阿修羅・原が受賞、4月にヘビー級戦士として雪崩式ブレーンバスターを引っ提げてアメリカのミッドサウス地区から凱旋帰国。国際プロレスの救世主になるかと思いきや時すでに遅しで東京12チャンネルのレギュラー放送が打ち切られた後だったのは不運でした。
5月16日、後楽園ホールでマイティ井上と組んでポール・エラリング&テリー・ラザン組のIWA世界タッグ王座に金網デスマッチで挑戦してタイトル獲得。団体崩壊まで3度の防衛を果たしました。国際プロレス活動休止後は天龍をターゲットとし、全日本プロレスヘ参戦、10月2日、後楽園ホールで天龍とシングル対決、ケレン味なしの真っ向勝負で16分53秒、両者リングアウトの引き分け。
この試合を馬場が高く評価し全日本プロレス入団が決定、11月の「世界最強タッグ決定リーグ戦」では天龍と組んでエントリーし活躍しました.
大衆賞はタイガーマスク、4月23日、蔵前国技館でのダイナマイト・キッド戦でデビュー。四次元殺法と言われたファイトスタイルで少年ファンを魅了、新日本プロレスブームの立役者の1人となりました。
団体から1名ずつ選出される努力賞は全日本プロレスが石川隆士、新日本プロレスが若手の前田明(日明)、国際プロレス(1〜8月)が浜口。
功労賞は4月30日、札幌市豊平区の中村記念病院で脳腫瘍の為29歳の若さで急逝した元国際プロレスのスネーク奄美と4月3日、後楽園ホールで引退した新日本プロレスの魁勝司が受賞しています。
選考委員長は高橋典義東京スポーツ新聞社取締役編集総長で選考委員は田鶴浜弘(プロレス評論家)、菊地孝(プロレス評論家)、鈴木庄一(月刊プロレス)、杉山潁男(月刊プロレス)、竹内宏介(ゴング)、山口雄介(ゴング)、小池幸雄(フクニチスポーツ)、佐藤匠市(デイリースポーツ)山浦力(名古屋タイムズ)、以下は東京スポーツで山田隆(日本テレビ解説者)、桜井康雄(テレビ朝日解説者)、和喜多正明(編集局次長)、門馬忠雄(第2運動部デスク)、鈴木皓三(写真部デスク)、富田政宣(写真部主任)永島勝司、松田隆、川野辺修、山田宗男、特別選考委員としてイーデス・ハンソン。
翌82年、猪木は糖尿病により2度の長期欠場、馬場は新日本プロレスから引き抜いたハンセンとの試合で一度は復活しますが、日本テレビから出向してきていた松根光雄が社長に就任し会長に棚上げされて経営の実権を失います。
この年が74年の第1回から続いた馬場、猪木の並列時代の一つの区切りと言えます。猪木が最後のMVP受賞で82年がタイガーマスク、83、84年が鶴田、85年藤波、86〜88年が天龍となり世代交代となっています。
プロレス大賞選考会は12月18日に開催され、21日というのは掲載された日の東スポの発行日となります。
※対戦戦績は268戦48勝220敗、勝率179。
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