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2023年03月03日22:26

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週プロ流智美あの日あの時予想2022年総括(3)

第220戦、1月19日発売号●【予想】新間寿、馬場を挑発、ジム・クロケットが「IWGPに全面協力を約束」報道(82年ニューヨークMSG他)【正解】レスラーとフロント業、“掛け持ち“の利益と弊害、ジャイアント馬場が日本プロレス取締役&選手会長に就任(66年1月17日)

【予想解説】80年12月13日、東京体育館において新間営業本部長の口から発表のあった「IWGP」(インターナショナル・レスリング・グランプリ)構想。

「プロレス界に乱立する多くのタイトルを一本化し、真のリアルワールド・チャンピオンを決める」猪木にとっては日本選手権、格闘技世界一決定戦に次ぐライフワークとなった訳です。

世界のプロレス界をアジア、アメリカ、北米(カナダ等)、ヨーロッパ、中南米(メキシコ等)、中近東(パキスタン等)6つのゾーンに分けて各地区で予選を行い、決勝リーグ戦は各地区のテリトリーを廻り、優勝決定戦はニューヨークのMSGで開催するというスケールの大きなものでした。

翌81年4月23日、蔵前国技館でスタン・ハンセンとの王座決定戦(前週の4月17日、鹿児島県立体育館でのハンセンとの防衛戦が13分24秒、没収試合となり、タイトルはコミッショナー預かりに)に12分56秒、コーナーポスト最上段からのダイビング延髄斬りからの体固めで勝ち、NWFヘビー級王座に返り咲いた猪木は、IWGP参加の為に同タイトルを返上。
 
坂口征二も保持していたWWF北米ヘビー級王座と、坂口&長州力組が保持していた北米タッグ王座をそれぞれ返上しています。

5月8日、川崎市体育館での「第4回MSGシリーズ」開幕戦には、全日本プロレスのトップヒール外国人レスラーだったアブドーラ・ザ・ブッチャーがIWGP参戦を表明して新日本プロレスのリングに登場、続いて馬場、鶴田に次ぐ全日本プロレス「第3の男」タイガー戸口も新日本プロレスヘ移籍を表明しました。

6月4日、蔵前国技館のリング上ではタイガー・ジェット・シンがIWGP参加の為にNWF北米ヘビー級、新日本版アジア・ヘビー級王座、同アジア・タッグ王座(パートナーは上田馬之助)を返上していますが、シンはこの日を最後に8年間暴れまくった新日本プロレスのリングに訣別、馬場の誘いに応じて全日本プロレスのリングに闘いの場を移しました。

「真の世界王者」を謳うからにはやはり全日本プロレス的なメンバーを入れなければファンが納得しなかったかと思われ、ブッチャー、戸口を引き抜いた感はありますが、これに端を発した新日本プロレスと全日本プロレスの引き抜き抗争が勃発、新日本プロレスがディック・マードックを獲得すれば、全日本プロレスはチャボ・ゲレロが新日本マットで木村健吾を破り奪取したNWAインターナショナル・ジュニア・ヘビー級のベルトを持ったまま移籍。

12月13日、全日本プロレス、蔵前国技館での「世界最強タッグ決定リーグ戦」最終戦に新日本プロレスの強さの象徴であったハンセンが登場して、全日本プロレスへの参戦を表明。引き抜き抗争はハンセンの全日本プロレス移籍という最終回逆転満塁ホームランの前に、仕掛けた新日本プロレスが白旗を挙げた形となり逆転負けを喫しています。

年が開けて82年1月18日、ニューヨークMSGを訪れた新間はビンス・マクマホン・シニア、フランク・タニーの仲介で馬場派プロモーターの代表格の1人であるNWA会長(当時)のジム・クロケット・ジュニアと会談、で新間寿クロケットが握手を交わしました。

新間、ビンス・シニア、タニーと一緒にクロケットがIWGPのトロフィー(IWGPはトロフィーではなくベルトが贈呈されており、実際はMSGシリーズで使用されたトロフィーかと思われる)

翌19日、ニューヨーク・ヒルトンホテルでは新間はビンス・シニア、クロケットにNWAのタイトルマッチを管理するジョージアのジム・バーネットと会談を持っています。

そこで「IWGPにNWAとAWAが協力をすることを約束したくれた。NWA、AWAの両世界王者がIWGPに参加する可能性がある」と発言します。これを受けた馬場が真っ向から反論しますが、これについては次回の正解解説に関わって来ますので、次回お届けすることに致します。

【正解解説】力道山死後、日本プロレスの社長に就任した豊登は今でいうギャンブル依存症で、もらっていたファイトマネーでは飽き足らず、「会社の金庫から札束を鷲掴みにして」持出し、ギャンブルにつぎ込んでいました。

力道山、豊登共に反社会的勢力との付き合いを初めとして、今の夜の中であればコンプライアンス上の問題が多過ぎて、ヒーローになれる人物ではないですが、時代に恵まれたのは間違いないところです。

豊登が表向きは「健康上の理由」で実際は公金横領の科(トガ)で65年一杯で日本プロレスの社長を辞任(実際は解任)となってしまい、翌66年1月からは芳の里淳三を社長に据え、遠藤幸吉、吉村道明、吉原功らの先輩陣の中でアメリカからの2度に亘る武者修行を終えて3年となった馬場(当時27歳)が取締役兼選手会長に選出されています。

流さんのコラムに採り上げられている「東京スポーツ」は1月10日付になっていますが、馬場が取締役に就任したのが1月17日であるとのこと。

当時の経緯を東スポの桜井康雄氏は「豊登のクビを切って2週間位したころ、芳の里、遠藤らの幹部は『豊登がアメリカ修業中の猪木を誘って新団体を作るだろう』ということは察知していたよ。それで馬場を取締役にしたんだ、それで給料を倍以上にしてやったんだよ。取締役の給料(役員報酬)はレスラーのギャラぐらいあったからね」と述懐。

さらに桜井氏は「この後3月に豊登がハワイに来てアメリカ修業を終えた猪木を口説いた時、『日プロにいたんではお前は一生、馬場の上にはいけない』って言ってたけど、これはリング上の序列だけの話じゃなくて、報酬面の話もあった訳だよ。馬場が取締役でいたら、馬場以上には稼げない。豊登にそれを聞かされたら、23歳の猪木は豊登についていくしか道はなかったと思うよ」と続けました。

実際に猪木は、「ハワイで日本プロレスのみんなと合流した時、吉村さんや馬場さんの態度がよそよそしかった」と言い、日本プロレスの外国人レスラーのブッカーをしていたミスター・モト(チャーリー岩本)からは猪木の「第8回ワールド・リーグ戦」のファイトマネーを外国人と同様に週給ドル建てで支払うと伝えられており、「日本に帰るのに何でだろう?」と頭の中に疑問が生じていました。

猪木の胸の内には日本プロレス側の対応が自分の思っていたものとは違い、日本プロレスに対する不信感が募り、豊登の誘いに応じ、日本プロレスを離脱、新団体「東京プロレス」設立へ向けて動き出すことになります。

※対戦成績は220戦40勝180敗、勝率182。
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