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2023年02月28日22:07

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週プロ流智美あの日あの時予想2021年総括(51)

第217戦、12月24日発売号●【予想】昭和巌流島の決闘、日本重量級選手権試合力道山vs木村政彦(54年日本プロレス蔵前国技館)【正解】「馬場−猪木戦の実現」に火をつけた2人のテレビ解説者、猪木がスポーツ紙を通じて馬場に対戦を表明(74年12月26日)

年末年始編成ということで2021年はこの号が合併号で年内最終発売となりました。

【予想解説】「木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか」(増田俊也著、新潮社刊)という著者が話題を集めている謎の一戦。

日本プロレス史70年の出来事の中から、話題性、歴史的価値、今尚語り継がれているという点でこの話題に勝るものなしと力道山vs木村政彦、昭和巌流島の決闘を予想しました。

54年2月19日〜21日の蔵前国技館3連戦で幕を明けたベン&マイクのシャープ兄弟を招いての日本初のプロレス国際試合は大盛況に終わりましたが、同年11月、力道山のパートナーを務めた「鬼の木村」、「木村の後に木村なし」と言われた木村政彦が力道山に挑戦を表明。「力道山のプロレスはジェスチャーの多いショーだ。私は負け役をやってきたが真剣勝負では力道山には負けない、挑戦を受けろ」とアピール。力道山はこれを受諾し、11月27日、力道山主演映画「力道山怒濤の男」を撮影していた松竹大船撮影所で調印式が行われました。

試合は日本重量級選手権試合、61分3本勝負。レフェリーはハロルド登喜、1本目は静かな立ち上がりとなりましたが木村の蹴りが力道山の太腿の付け根にチョコンと入りました。そこから展開が一変、力道山は激怒していきなり張り手を木村の顔面に叩き込み、不意を付かれた木村はダウン。ダウンした木村の顔面に力道山はリングシューズで蹴りを入れていきました。

木村は戦意喪失してダウン、15分49秒、レフェリーストップで力道山が勝ち、2本目は試合放棄で2−0で力道山がストレート勝ちとなっています。

謎の多い試合として知られていますが、何故あのような凄惨な結末に終わってしまったかというと、力道山のプロレスをショーだと表向きには批判していた木村が裏では力道山との3連戦を行い、お互いに儲けようと提案、力道山は提案を飲んだふりをして木村をリングに上げて急所を蹴ったと揚げ足を取り騙し討ちのように潰してしまったということのようです。

背景には「ショー、負け役」と言ったプロレス八百長論を木村が言い出したことに対する制裁の意味とプロレスで世界を狙う力道山が木村と同格であってはならないという意識があったからだと思います。格闘家としての木村が弱い訳がなく、真剣勝負で闘えばおそらく力道山を裸絞めや後にキムラロックと言われた腕絡みで決めてしまうことは容易だったと思いますが、力道山を信用してリングに上がった木村は仕掛けられるとは考えておらず、無防備状態でいきなりナマの張り手を食らって気がついたら負けていた感じではなかったでしょうか?

柔道関係者からすれば「あの木村先生が力道山ごときに負けるなんて」と考えるのは当然の話ですが、力道山の不意打ち、騙し討ちが真相だろうと考え、力道山を商売に利用して自分も儲けようと思った木村の負けだった、ということでしょう。

【正解解説】元国際プロレスのエースであり、団体の看板タイトルであるIWA世界ヘビー級王座を転落する(誰かに負けてベルトを置いていく)ことなくフリーとなったストロング小林を2度に亘って破り、73年4月に興行活動を休止した日本プロレスの最後のエースであり、認定団体がなくなり、韓国で防衛戦をやっていたかどうか定かではなかったがインターナショナル王者の大木金太郎を破り、意気上がる猪木は74年12月13日、全日本プロレスの総帥、PWFヘビー級王者、馬場に内容証明郵便で「対戦要望書」を送付しました。

「テレビ放映権もくれてやる、興行権も譲る。ファイトマネーも要らない。立ちたまえ馬場君!私達は故・力道山先生の門下生として共に厳しい練習を積み、切磋琢磨してきた間柄ではないか、今こそ正々堂々と男らしく勝負して真の実力日本一を決めようではないか!」

実際に猪木が全日本プロレスの興行に出て、馬場と対戦し、それを日本テレビが放送するというのは、NETと契約している立場上、現実的ではありませんがとにかく付帯条件を相手に与えて追い込んでいく猪木特有のやり方でした。

馬場はこれを受け取ったままアメリカに鶴田と共に出発、 馬場と鶴田は故ドリー・ファンク・シニアのメモリアル大会のメインイベントでドリー・ファンク・ジュニア&テリー・ファンク組のザ・ファンクスが保持するインターナショナル・タッグ王座に挑戦が決定していました。(2−1で敗れる)

馬場はアメリカ出発前の取材で、「確かに対戦要望書は受け取った。公開でこれが届けられた以上、私もハッキリした返事をする。今はインターナショナル・タッグ王座挑戦のことで頭がいっぱい。アメリカから帰ってきたら答えを出す。」とコメントしています。

一方で、ブラジル遠征シリーズから帰国した猪木は、馬場の渡米中、一気にまくし立てています。

猪木「今まで馬場さんを追い続けて来た、私の態度に色々の批判があることは知っている。しかし、私は私の信念に基づいて馬場さんに対戦を迫っているのだ。

日本マットの統一は、私の悲願であり、真の強者は一人でなければならぬ。いたずらにチャンピオンが乱立して興行の看板用のチャンピオンになり、真の実力を疑問視されることは、本質的なプロレスのあり方に触れる大問題だ。

ファンのそんな目に対して、チャンピオンは真に強者であるという答えを出すべきなのだ。だからこそ、私は馬場さんに『私と闘え』と言う。おそらく馬場さんは私とは闘わないと言うでしょう。それならそれでいい。

私は自分で言うのも変だが、これだけの誠意を見せているのだ。(テレビ放映権、興行権、ファイトマネー不要など)今度こそ馬場さんも『よし、猪木分かった。やろう!』と言ってくれることを期待しているのだが…」

本コラムについては12月28日付(27日発行)の「東京スポーツ」1面記事に掲載された「猪木、馬場に対決迫る」という記事の紹介文で、珍しく猪木番記者だったNET「ワールドプロレスリング」解説者の桜井康雄と日本テレビ「全日本プロレス中継」の解説者の山田隆の両巨頭が猪木を取材、和室のようなところで猪木にインタビューしている様子が掲載されています。

インターナショナル・タッグ王座の奪回は失敗に終わり、12月29日、帰国の途についた馬場は東京スポーツのインタビューに答えて「闘わない」という意思表示を明らかにしています。いか馬場のコメントを抜粋。

馬場「猪木君の挑戦状は確かに受け取った。随分と厳しいものだね。私は猪木君の言っていることはよくわかる。また、ファンがそれを望んでいることもわかる。だが私は闘えない、逃げる訳ではない。闘わないというのではない。だが闘えぬ。

それは、私がNWAのメンバーだからだ。NWAでは他の団体の選手との対戦を認めていない。猪木君はNWAのメンバーではない。私はアメリカでNWA会長のサム・マソニック氏、PWF会長のロード・ブレアースの会長両氏に相談したが、闘ってもいいという許可は得られなかった。

NWAの意向を無視しては闘えない。全日本プロレスはNWAとの提携の上に成り立っているのだから猪木君とは闘えない。」

柳澤健氏著の「1964年のジャイアント馬場」においても馬場のこの理論はデタラメと書いてありますがそこはその通り。「NWAが駄目だと言っているから闘えない」と言う理由で本当にファンが納得するのか?

いずれにしても馬場が「ノー」と回答したことで日本選手権問題は一応は終わりを告げました。 

さて、この74年という年は東京スポーツ新聞社による記念すべき第1回の「プロレス大賞」が制定された年でした。東スポの井上博社長が険悪な馬場と猪木の関係を憂慮し「1年に1度位、3団体のレスラーが一堂に会し、交流を深めてもいいんじゃないのか」という肝いりで実現したものでした。

最優秀選手賞(MVP)アントニオ猪木(新日本)、最高殊勲選手賞ジャイアント馬場(全日本)、年間最高試合賞(ベストバウト)NWF世界ヘビー級選手権試合猪木vsストロング小林(新日本3月19日、蔵前国技館)、特別賞マイティ井上(国際)、敢闘賞小林(フリー)、技能賞ジャンボ鶴田(全日本)、新人賞藤波辰巳(新日本)、努力賞山本小鉄(新日本)、マシオ駒(全日本)、寺西勇(国際)※努力賞は各団体より1名選出。

新日本プロレスと全日本プロレスのパワーバランスに配慮した後が見受けられますが、小林が年間最高試合賞と敢闘賞の2つを受賞したのは猪木との2連戦が高く評価されたものでした。

「最優秀選手賞」と「最高殊勲選手賞」を両方制定しなければならなかったのは苦慮した部分でしたが、馬場、猪木「両雄並び立たせる」にはこうせざるを得なかったと思います。

※対戦成績は217戦40勝177敗、勝率184。年間成績は51戦7勝44敗、勝率137。
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