第190戦、6月16日発売号○【予想、正解】モハメド・アリ、猪木と対戦の為に来日(76年新日本プロレス羽田空港)
【解説】76年2月24日付、ロサンゼルスの地方紙である「ヘラルド・エグザミナー紙」がプロボクシングWBA&WBC統一世界ヘビー級王者モハメド・アリと日本のプロレスラー、アントニオ猪木が6月に東京で対戦すると報じられ、2月26日、日本にもニュースが入って来ました。
ソースはもちろん新日本プロレスだと思いますが、このニュースを新日本プロレスが記者会見を行って発表した訳ではなく、外国紙からの外伝で日本に伝えたのはやはりセンセーショナルさをよりアピールする為でしょう。
ことの発端は前75年3月24日、74年10月30日、アフリカ・ザイール共和国キンシャサでジョージ・フォアマンに8ラウンドKO勝ちで絶対不利と言われた闘いを制し「キンシャサの奇跡」と呼ばれ世界ヘビー級王座に返り咲いたアリは、オハイオ州クリーブランドで、無名の世界ランキング8位、チャック・ウェップナーと初防衛戦を行い、ダウンを奪われるも15ラウンドTKO勝ちで初防衛に成功。(この試合をテレビ観戦していた当時28歳の無名時代のシルベスター・スタローンがインスパイアされて「ロッキー」の脚本を一夜にして書き上げたというのは有名な話)
この試合の後、アリは「次は東洋人とやりたい。俺と闘う勇気のある東洋人はいないのか!ボクサーじゃなくてもいいぞ、空手家でも柔道家でもいい。100万ドルので賞金を用意する」とアピール、当時の自民党衆議院議員で日本アマレス協会会長であった八田一朗氏がこの話を聞いて「これは面白い話」と動きました。
猪木は話を聞いて「俺が対戦したい」と名乗りを上げて、同年6月9日、マレーシアのクアラルンプールでジョー・バグナーと防衛戦を行う(試合は7月1日)時、トランジットで羽田空港に立ち寄ったアリに新日本プロレスの杉田豊久渉外担当が猪木の「挑戦状」を渡しました。
その時のアリの反応は「イノキ、フー?(誰?)」というものでアリ得意のジョークかと思われましたが、猪木はその後もエージェントを通してアメリカで交渉を続け、いよいよ、本当にアリとの対戦が実現することになった訳です。
猪木は3月25日、ニューヨーク・プラザホテルでアリとの調印式に臨み、紋付き羽織袴というジャパニーズスタイルで登場、アリが得意のビッグマウスで「お前の長い顎はペリカンに似てるな、今日からお前をペリカン野郎と呼ぶことにする」と挑発すれば、猪木は対象的に「私は口では闘わない」と微笑みを浮かべた態度で対応し、肝の座ったところを見せています。
アリは超一流のショーマンでありエンターティナー、猪木に同席していた倍賞美津子夫人(当時)に対して格好を崩して色目使いをし、また視線を猪木に戻すと一転してファイターとしての厳しい表情に変わる、というスイッチの仕方が素晴らしく、その場にいたマスコミ、関係者を楽しませることを常に考えていました。
6月16日、モハメド・アリがついに来日、マネージャーのフレッド・ブラッシーを従えて羽田空港に登場。到着して直ぐに夜の10時30分から記者会見を行い、「猪木を8ラウンドでKOする」と予告しました。
流さんのコラムによると猪木のスパーリング・パートナーを務めていた藤原喜明は「試合が午前11時50分からなので、猪木さんは午前11時位に体力のピークを持って来られるようにコンディションを整えていた。スパーリングをしていても、俺のパンチなんか1発も当たらない。アリは組みつかれたら3分もも持たなかっただろう」と述懐。猪木がコンディション調整に最大限注意を払っていたことを明かしています。
またアリが羽田空港に到着し日本に上陸した時には「ウチのヤツ(倍賞美津子夫人)と一緒になった時以上にときめいたぜ」とも発言しており、「そんな試合出来る訳がない」と周囲からさんざんコケにされたいた猪木ですが、本当にアリが来日したことで「それ見たことか」と見返したい気持ちになって出た発言でしょう。
アリvs猪木戦のレフェリーを務めたジン・ラーベル(2021年8月死去)は、アリがアマチュアボクサー時代からトレーナーをしておりアリとは懇意の関係にありました。ラーベルのレフェリーについてはアリは歓迎でした。
しかし、ジャッジの名前にルー・テーズがあったのを見たアリがテーズを拒絶、ボクシングのレフェリーをしていた遠山甲に変更されています。テーズはロサンゼルス在住の新日本プロレスのエージェントで通訳、外国人レスラーの航空券の手配をしていた鯨岡チカ女史からチケットを受け取っていながらキャンセルされ、大変ショックを受けていたそうです。
※対戦成績は190戦38勝152敗、勝率200。
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