第185戦、5月12日発売号●【予想】馬場、ゴリラ・モンスーンを破り最後のワールド・リーグ戦優勝、日本テレビが放送打切(72年日本プロレス東京体育館)【正解】猪木とパット・パターソンの友情秘話(68年日本プロレス福山市護国神社広場特設リング)
【予想解説】前年暮れに猪木が日本プロレスを除名・追放処分となり、猪木抜きで開催された「第14回ワールド・リーグ戦」。ゴリラ・モンスーン、アブドーラ・ザ・ブッチャー、ディック・マードック、カリプス・ハリケーン(サイクロン・ニグロ)、キラー・ブルックス、ホセ・ロザリオ、サルバトーレ・ロザリオ、マイティ・ブルータス(ザ・ブルート、バグジー・マグロー)、カナディアン・ランバージャック(ジョー・ルダック)の外国人レスラーが参加。
日本側は3連覇を狙う馬場、坂口征二、大木金太郎、吉村道明、上田馬之助、ミツ・ヒライ、星野勘太郎、フリー参戦のマサ齋藤が参加。
この年は外国人組はモンスーンをキャプテン、マードックを副キャプテンとして優勝者に懸賞金20,000ドル(当時の邦価で約720万円)が贈呈されるスタイルだった為、外国人サイドはモンスーンを優勝させるべく支援に回りました。
日本側対外国人側の対抗2回総当たりリーグ戦で○あらゆる勝ち1点、△時間切れ引き分け0.5点、●▲負けと両者リングアウトが0点で日本側と外国人側の最多得点者同士による優勝決定戦となり、特別レフェリーとしてロサンゼルス・オリンピック・オーデトリアムの名レフェリー、レッドシューズ・ドゥーガンが特別参加。
優勝決定戦は5月12日、東京体育館で行われ、日本側代表は16勝1敗1両リン、勝ち点16の馬場、外国人側代表は14勝3敗1両リン、勝ち点14のモンスーンの対戦に。
猪木が抜けて日本側ナンバー2となった坂口は公式戦最終試合、5月11日、横浜文化体育館でのハリケーン戦で両者リングアウトの無得点試合となってしまい、15点で外国人側の最多得点者モンスーンよりスコアでは上位に来ましたが、優勝決定戦には進出出来ずに終わりました。
試合は60分3本勝負、1本目は10分58秒、モンスーンが逆エビ固め、2本目は3分42秒、馬場のリングアウト勝ち、決勝の3本目は2分27秒、馬場が逆エビ固めで取り、2−1で馬場の勝利。3年連続通算6回目の優勝を果たしています。
そして本連載(15)で書きましたように、猪木の日本プロレス離脱により日本テレビとの当初の約束を反故にして馬場をNETの「ワールドプロレスリング」に登場させたペナルティとして、この日の生中継を最後に日本テレビは18年続いて来た「日本プロレスリング中継」の放送を打切。
翌の5月19日からは過去の名勝負を放送、7月21日より毎週金曜午後8時は石原裕次郎主演の刑事ドラマ「太陽にほえろ!」がスタート、NETは金曜午後8時を横取りし、7月28日の後楽園ホール大会から従来の月曜午後8時と併せて週2回の放送になりましたが、10月6日からは金曜のみの放送となりました。
日本テレビはこの時と00年の三沢光晴以下ノア勢の大量移籍、09年3月と55年のプロレス中継の歴史の中で3回放送打切をしており、それを考えると69年7月の日本プロレスの中継開始以来54年間一度も放送を打切っていないテレビ朝日(NET)には頭が下がる思いですね。
【正解解説】2020年12月2日に79歳で亡くなった「サンフランシスコの帝王」パット・パターソン。1941年1月19日、カナダ・ケベック州モントリオール出身。
少年時代よりプロレスラーに憧れ、地元モントリオールでプロレス興行の裏方のアルバイトを始め、同地区で活躍していたキラー・コワルスキーに師事し58年に17歳でデビュー。キャリア初期は 「プリティ・ボーイ」パット・パターソンのリングネームを名乗り、口紅を塗ってピンクのトランクスを穿き、ペットのプードルを連れてリングに登場するなどのギミックで活動しました。
パターソンは後にゲイをカミングアウトしておりゲイギミックでデビューしたのは自然の成り行きと言えます。
60年代からはアメリカ本土のNWA加盟団体を中心に活躍。64〜66年頃は、オレゴン州ポートランドを中心としたパシフィック・ノースウエスト地区で活躍、同地区のパシフィック・ノースウエスト・ヘビー級王座を3回に亘り獲得。
そこで、日本から修行に来ていた猪木(リングネームはカジモト)と出逢い、年齢も2つ違いで近かったところから仲良くなりました。
流さんの本稿によれば、オレゴンのプロモーターはドン・オーエンとハリー・エリオットでしたが、当時猪木より稼ぎが上だったパターソンはエリオットの経営するレストランに日本食のメニューがあり、猪木に日本食をご馳走したところ、日本食に飢えていたらしく喜んで沢山食べてくれたと、エピソードを語っています。
猪木はその時の事を恩義に感じ、新日本プロレスを旗揚げしてからもパターソンを「破格の待遇」で招聘し、76、77年の「闘魂シリーズ第2弾」ではエースとしての扱いで、12月1日、大阪府立体育会館で両者はNWFヘビー級王者を賭けて対戦、24分1秒の激闘の末、卍固めで猪木がギブアップ勝ちし11度目の防衛に成功。
79年にAWAからWWFに移ったパターソンはボブ・バックランドのWWFヘビー級王座に再三に亘り挑戦してバックランドを苦しめ、初代インターコンチネンタル王者として活躍、引退後はWWEのエージェントを長く務め、日本の平均的な定年にあたる65歳まで務めあげて06年に退職しています。
リング内外問わず人の出入りの激しいWWEで65歳まで務めあげたのは、現役時代の実力のみならずその人柄をビンス・マクマホンに高く買われていたからでしょう。
本コラムで採り上げられた日本プロレスの福山大会はパターソンが初来日した68年の「第10回ワールド・リーグ戦」の時の地方大会の模様で、この日パターソンは馬場と公式戦で対戦、まだまだ格の違いはあり4分5秒、片エビ固めで敗れています。
ちなみに猪木のこの日のカードはどうだったか?というと、メインイベントの6人タッグマッチで金一(大木金太郎)&山本小鉄とのトリオでコワルスキー&ドン・デヌーチ&レン・ロシイ組を2−1で破っています。
本文記事と採り上げた興行には猪木とパターソンの両者が出ていたという以外にはほとんど関連性がなく、猪木とパターソンの友情秘話を書くのであれば、前述の両者によるNWFヘビー級選手権試合を初め、題材とする試合は他に沢山あったように思います。
※対戦成績は185戦36勝149敗、勝率195。
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