76年新日本プロレス秋の陣「闘魂シリーズ」は8月27日、後楽園ホールで開幕。
前半戦特別参加が新日本プロレス初参戦となる「鉄腕」スーパースター・ビリー・グラハム、2度目の新日本プロレス参戦となる「ロシアの怪豪」イワン・コロフ。後半戦特別参加が「大巨人」アンドレ・ザ・ジャイアント、ビル・ドロモ。
シリーズ全戦参加がクルト&カールのフォン・スタイガー兄弟、ブラックジャック・モース、テリー・ルージと豪華メンバーが集結。先の「アジア・リーグ戦」は興行的にも盛り上がらず、「アリショック」と言われ地方の売り興行のキャンセルが発生するなど盛り上がりを欠いたシリーズになってしまいました。
この「闘魂シリーズ」も一部その余波を引きずった部分はありましたが、WWWFからの大物招聘で反転攻勢に出るべく勝負を賭けています。
注目は新日本プロレス初参戦のグラハム。本名エルドリッジ・ウェイン・コールマン。1943年9月10日、アリゾナ州パラダイスバレー出身の当時32歳(来日中に33歳となった)193cm、125kg。猪木と同い年。
70年代を代表するスーパースター。80年代以降続々と全米で活躍ようになるハルク・ホーガン、ジェシー・ベンチュラ、ランディ・サベージ、アルティメット・ウォリアー、レックス・ルガー、リック・ルードなどのボディビルダー系、マッチョマン系と称されるタイプのレスラーたちのモデルとなった人物で業界を代表するアイコンでもあります。もう少し広義に見れば、アニマル&ホークのザ・ロード・ウォリアーズもこのカテゴリに属します。
怪力と反則を駆使したスタイルでテクニックには乏しかったが、観客とのやり取りやマイクパフォーマンスには抜群の才能を発揮し、ヒールでありながら脅威的な人気を誇り。ホーガンやベンチュラらは元々はグラハムのファンであり、熱心なフォロワーでもありました。
世界の頂点に立ったリック・フレアーも、マイクパフォーマンスでの毒舌はグラハムの話術をコピーしたとカミングアウトしています。サイケデリックな色彩の絞り染めのロングタイツとバンダナのリングコスチューム、丸い透明なサングラスをつけて入場。「入場だけでお金の取れる男」と言われました。
現役晩年に用いられたスキンヘッドとラウンド髭といったカンフースタイルも、後年のレスラーに大きな影響を残している。一方、プロモーション・インタビューの慣習がなく言葉の通じない日本のマット界では現役当時の評価は低く、「デクの坊」「しょっぱい」など揶揄されています。
10代の頃からアメリカンフットボールや陸上競技に熱中し、ボディビルのコンテストでは優勝経験も持つ。68年にAFLのオークランド・レイダースとヒューストン・オイラーズのトライアウトに参加したが、ロースターには残れず、CFLのカルガリー・スタンピーダーズからも開幕前に解雇されました。以後、同じくCFLのモントリオール・アルエッツと契約し、5試合にディフェンスとして出場。その後、ボディビルで鍛えた肉体を活かすべくプロレスに転向、CFLの先輩でもあるカルガリーのスチュ・ハートのトレーニングを受け、70年1月に本名のウェイン・コールマン名義でデビューしました。
同年夏、NWAのロサンゼルス地区にてドクター・ジェリー・グラハムと出会い、長男ジェリー、次男エディ、三男ルークからなるグラハム兄弟の「末弟」としてスーパースター・ビリー・グラハムのリングネームを名乗りました。
スーパースターは当時大ヒットしていたミュージカル「ジーザス・クライスト・スーパースター」から、ビリーはキリスト教伝道師のビリー・グラハムからそれぞれ付けられたとされる。その後はサンフランシスコ地区に転戦。71年1月7日に同地区のカウ・パレスにてパット・パターソンと組み、レイ・スティーブンス&ピーター・メイビア組を破り同地区認定のNWA世界タッグ王座を獲得。
72年10月よりAWAに参戦。ワフー・マクダニエルとの抗争で名を売り、74年8月16日にはコロラド州デンバーでビル・ロビンソンを2−1で破ったとして、AWAと当時業務提携をしていた国際プロレスのIWA世界ヘビー級王座を獲得。(本連載記述の通り、実際にはこの試合は行われていない可能性が強い)
同年9月、第8代IWA世界ヘビー級王者として国際プロレスの「スーパー・ワイド・シリーズ」に初来日。9月15日の後楽園ホールでの開幕戦ではアニマル浜口を降し、試合後には「ハマグチなんて若僧は口ほどでもない。日本で俺に勝てる奴なんていないだろう」などと豪語しました。
この日は東京12チャンネルの「国際プロレスアワー」のレギュラー「収録」第1回(放送は1週後の9月23日、日大講堂からの生中継が初回)であり、同局が選曲した日本初のレスラー個人に対しての入場テーマ曲として映画「ジーザス・クライスト・スーパースター」からメインテーマ曲「スーパースター」で入場しています。グラハムは日本において「個人のテーマ曲で入場してくるプロレスラー第1号」として歴史に残る選手となりました。また、開幕戦では試合前に同じボディビル出身である浜口とのベンチプレス対決など数々の話題を残しています。
東京12チャンネルのレギュラー放送第1回となる9月23日、日大講堂ではバロン・フォン・ラシクと組んでラッシャー木村&グレート草津組の保持するIWA世界タッグ王座に挑戦し1−1から反則負け。
IWA世界ヘビー級王者のグラハムの前に挑戦者として立ち上がったのはマイティ井上。井上との同タイトル戦はシリーズ中に3回行われ、10月1日、大分県営体育館では2−1でグラハムの勝ち、10月5日、愛知県体育館では1−1から両者リングアウトの引き分け、10月7日、埼玉県越谷市体育館では井上が2−1で勝ってベルト移動、グラハムは王座を明け渡しています。
75年にはAWAを離れ、フリッツ・フォン・エリックのテリトリーであるテキサス東部のダラス地区に転戦、4月4日にブラックジャック・ランザ、8月5日にマッドドッグ・バションから同地区のブラスナックル王座を2度に亘り獲得。その後、ノースカロライナを中心としたNWAミッドアトランティック地区を経て、10月よりグラン・ウィザードをマネージャーに迎えてWWWFに初参戦。
11月29日、マサチューセッツ州ボストン・ガーデンで早くもブルーノ・サンマルチノのWWWFヘビー級王座に挑戦し互角の攻防を展開し引き分けて見せました。
猪木も初出場した12月15日ニューヨークのMSGに初登場し、ドン・デヌーチを9秒でベアハッグでギブアップさせてセンセーショナルなMSGデビューを飾っています。(この手法は79年12月17日、ホーガンのMSG初登場でもオマージュされ、テッド・デビアスを9秒でベアハッグでギブアップさせて勝っている)
翌76年1月12日のMSG定期戦では、サンマルチWWWFヘビー級王座に挑戦してリングアウト勝ちを収めています。(タイトルは移動せず)、2月2日、同所での再戦はサンマルチノがレフェリーストップ勝ちを果たしてリベンジに成功していますが、サンマルチノとは互角の対戦成績でした)
今回、猪木はもちろん、坂口征二、ストロング小林とも初対決。9月3日、愛知県体育館でコロフと組んで坂口&S小林組の持つ北米タッグ王座に挑戦。4選手ともパワーファイターだけにスケールの大きなぶつかり合いが期待出来ます。(この項続く)
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