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2022年05月12日20:46

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ストロング小林さん追悼(126)

75年次期「ビッグ・ファイト・シリーズ」に殴り込みを予告しているタイガー・ジェット・シンをNWF本部は猪木のNWF世界ヘビー級王座への挑戦者に指名。しかし猪木は「シンとはもう決着はついている。あのダーティファイトは挑戦者としての資格に欠ける。」とこれを拒絶。

しかしNWFからすれば看板タイトルである世界ヘビー級王座が1年2か月も日本に行ったままでは団体存亡に関わるとしてシンの挑戦をゴリ押ししました。

これに怒った猪木は2月11日、ニューヨーク州バファローのNWF本部に乗り込み抗議、ベルトを返上してしまいました。事態を重く見たNWF本部では猪木ベルト返上の責任を取って、デビット・ヘルマン会長が辞任。会長代行となったジェリー・アレン・プラターは猪木の師匠であるカール・ゴッチを特使として日本に派遣。

来日したゴッチは猪木にベルト返上を取り下げてシンと防衛戦を行うよう説得。さしもの猪木もゴッチの顔は立てなければならず、抗議は抗議としてベルトは返上しますが、改めてシンと王座争奪2番勝負を行うことで結論が出ました。舞台は3月13日、広島県立体育館と3月20日、蔵前国技館の2連戦。

この一件、大人になって冷静に考えれば突っ込みどころ満載の案件なのですが、当時小学校5年生の終わり頃だった私は心配に事の成り行きを「ゴング」、「月刊プロレス」で逐一追っておりました。

まずシンは新日本プロレスが招聘している外国人で興行の看板、儲かること間違いなしのシンが出る興行は売り興行の依頼が殺到、既にシンが出ることでチケットを売っておりシンと猪木がタイトル戦をやらないというのはまずありえない話。

次にNWF本部の存在。プロモーターの寄り合い所帯のカルテルであるNWAは除き、当時NWAと並ぶ世界3大団体と言われていたAWA、WWWFはオーナー企業。この為、AWAはスタンレー・ブラックバーン、WWWFはウィリー・ギルゼンバーグというプロモーターではない「会長」という名誉職を作り、興行会社と団体を切り離してファンにアナウンスしていました。

NWF本部というのは架空の組織で全日本プロレスのPWF本部も同じです。指名挑戦者というのはプロボクシングの世界でWBAやWBCがよく「チャンピオンは90日以内に世界ランキング1位の選手と防衛戦を行わねばならない」という趣旨の実況アナウンスをテレビ中継で聞いたことがあるかと思いますが、それがモチーフになっています。

NWFはジョニー・パワーズとペドロ・マルチネスがオーナーでしたがプロモーターとプロモーター兼レスラーであった為その事実は公開されず、マルチネスの顧問税理士だった税理士、公認会計士のデビット・ヘルマン(ディック・フェラルドマン表記の文献もあり)が会長を務め、会長代行となったプラター氏はプロレス雑誌の記者だったそうです。

また、もしNWFが実際に興行活動を展開したままであれば、シンの挑戦者指名に抗議した段階でベルト剝奪、猪木が返上を申し出たら喜んで受理し、本拠地であるバファローかオハイオ州クリーブランド、カナダのトロントあたりであっさり新王者決定戦をやったことでしょう。それが出来なかったのはNWFは既に団体としての機能を失い、世界ヘビー級王座は新日本プロレスの所管になっていたからに他ありません。なのでこの時の猪木のベルト返上劇は自作自演だということが理解出来ます。

75年「ビッグ・ファイト・シリーズ」は2月21日、群馬県藤岡市民体育館(テレビ生中継、観衆3,500人満員法被)で開幕、シン、マイティ・ズール、トニー・チャールス、スティーブ・ベイダー、ジョニー・ロンドス(チャールズ・ベレッツ)、ピーター・カイザーの外国人選手が参加。

当初はロサンゼルス、サンフランシスコといった西海岸地区を中心に活躍していたマグニフィセント・ズール(後の83年8月にヘラクレス・ローンホークとして初来日)が初来日する予定でしたが、来日前に性格の悪さでは定評のあるフランキー・レインと控室で口論となり、レインの彼女を殴ってしまい逮捕され、来日不能となり、マイティ・ズールが代打で初来日しています。マイティ・ズールはカナダ・モントリオールの前座の黒人レスラーで、リングネームもマグニフィセント・ズールに似せて新日本プロレスのフロントが付けたものでした。

ストロング小林は先の「新春黄金シリーズ」に特別参加した時は「次のシリーズに出場するかどうかは未定」と「別冊ゴング」75年2月号のインタビューで答えていましたが2シリーズ連続参戦となりました。

開幕戦のメインイベントは猪木&坂口征二組の黄金コンビがチャールス&Sベイダー組のイギリス勢と対戦。「ウェールズの魔術師」チャールスは68年2月、グレート東郷に参加外国人レスラーを引き揚げられた国際プロレスが、急遽、八田一朗日本アマレス協会会長の伝手で、イギリスのジョイント・プロモーションのジョージ・レリスコウを紹介してもらい、そのルートで国際プロレスに初来日。小林省三時代のS小林とも対戦しています。

新日本プロレスにはカール・ゴッチのブッキングでノーテレビ時代の73年1月に初登場、74年1月に次いで1年ぶりの来日。Sベイダーは初来日。1本目は20分36秒、坂口がSベイダーをアルゼンチン・バックブリーカーでギブアップさせ先制。2本目は猪木が背骨にダメージの残るSベイダーを僅か57秒、弓矢固めでギブアップさせて2−0で猪木&坂口組がストレート勝ち。

セミファイナルはS小林がシンとシングルマッチ45分1本勝負で初の対戦。この藤岡市民体育館は控室が2階にあるところから、2階席にスポットライトが当たり、シンが2階かサーベルを加えて入場してきて長い入場シーンとなり、観客席が沸き返ったのは記憶にありました。

試合はゴング前にシンがターバンでS小林の首を絞める先制攻撃から場外乱闘ヘ、S小林は額から流血もベアハッグで反撃したものの6分34秒、シンの反則負けが取られました。

ズールは星野勘太郎とシングルマッチで対戦し5分35秒、ベアハッグでギブアップ勝ち。ロンドスは、チャールズ・ベレッツとして72年1月の国際プロレス「新春パイオニア・シリーズ」に初来日、その前のS小林の第1次海外武者修行のイギリスでも対戦し、S小林から勝利を収めている実力者です。ゴッチのブッキングで同年11月の新日本プロレス「ニュー・ダイヤモンド・シリーズ」にロンドス名義で来日しています。開幕戦では木戸修とシングルマッチで対戦し6分18秒、体固めで勝利。

初来日のカイザーは西ドイツのハノーバーのプロモーターであり、国際プロレスのIWA設立の協力プロモーターに名を連ねていたグスタフ・カイザーの甥にあたります。開幕戦では小沢正志(キラー・カーン)を5分24秒体固めで撃破しました。このシリーズの熱戦譜を調べていくと山本小鉄が開幕戦から出ていません。体調不良も特に伝えられておらず…。

猪木と坂口による露骨な「小鉄降ろし」は翌76年から本格化しますが既にこの頃から会社の経費使用をめぐっての確執が始まっていた可能性はあります。
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