75年「新春黄金シリーズ」終盤戦、1月31日、岡山武道館(テレビ生中継、観衆5,200人超満員発表)大会。この日から「狂える野獣」ブルート・バーナードが特別参加、新日本プロレスへは初参戦を果たしています。バーナードと言えばスキンヘッドで唸り声を上げ、ヨダレをたらしながら反則ファイトをする老レスラーというイメージが強いですが、旗揚げ3年目の新日本プロレスにとっては紛れもなく「大物外国人」でした。
バーナードは1921年カナダ・ケベック州モントリオール出身(生年については諸説あり)、地元トロントのプロフットボールチームで活躍した後、プロモーターのジャック・ブリットン(ジノ・ブリットの実父)にスカウトされ56年に地元のケベック州にてプロレス入り。デビュー当時はジム・バーナードの名義で活動し、57年にはトロントのメープルリーフ・ガーデンやニューヨーク・MSG出場を果たすなど出世。
62年にアメリカ東部地区でブルート・バーナードと改名し、スキンヘッドの野獣スタイルに変身。全身無毛の怪奇派スカル・マーフィとタッグチームを結成、その凶悪ファイトで全米各テリトリーを席巻しました。
マーフィとのタッグは63年5月16日には設立間もないWWWFでバディ・オースチン&グレート・スコット組からUSタッグ王座を奪取、同年11月14日にゴリラ・モンスーン&キラー・コワルスキー組に敗れるまで半年間王座を保持しました。シングルプレーヤーとしては、63年7月20日、メリーランド州ボルチモア・スポーツアリーナにてブルーノ・サンマルチノのWWWF世界ヘビー級王座に挑戦して敗れています。
その後マーフィと共に各地を転戦、フロリダでは64年1月28日、タッグトーナメントの決勝でヘイスタック・カルホーン&ドン・カーチス組を破り、空位となっていたフロリダ版NWA世界タッグ王座を獲得、デューク・ケオムカ&ヒロ・マツダ組のオリエンタルコンビともタイトル防衛戦を行いました。
66年にはマーフィと共にオーストラリアに遠征、ジム・バーネットが主宰していたワールド・チャンピオンシップ・レスリングに参戦し、7月15日にマーク・ルーイン&ドン・デヌーチ組から豪州版IWA世界タッグ王座を奪取、2週間後の同月29日にルーイン&ベアキャット・ライト組に敗れ王座を明け渡すも、8月には奪還に成功しています。
その後、マーフィとのコンビを一時解消してアメリカに戻り、67年3月にテキサス州ダラスにてフリッツ・フォン・エリックからNWA認定USヘビー級王座(ダラス版、後のアメリカン・ヘビー級王座)を奪取、同王座の2代目王者となりました。同年8月には同じ野獣系でこちらは全身剛毛のブル・カリーを破り、テキサス・ブラスナックル王座も獲得しています。
68年11月、日本プロレス「NWAチャンピオン・シリーズ」に初来日。11月8日、後楽園ホールでの開幕戦でメインイベントに登場、ジョー・スカルパ(チーフ・ジェイ・ストロンボー)と組んで馬場&猪木組のBI砲と対戦、1本目、8分20秒、体固めで馬場をピンフォールし、観客とテレビ視聴者を驚かせました。2本目は5分15秒、猪木がスカルパをアバラ折り(コブラツイスト)でギブアップさせイーブンとなりましたが、決勝の3本目は3分、外国人組がリングアウト勝ちし2−1でBI砲を破っています。
翌週の11月15日には後楽園ホールで猪木とシングル初対決が実現、1本目は4分58秒に両者リングアウト、2本目は2分45秒に猪木が反則勝ちを拾いましたが、バーナードの喧嘩ファイトの前に猪木は防戦一方でした。
「人間サイレン」と言われる「ウヮーウヮーウヮーウヮー!」と独特の奇声を発しながらの、ギクシャクと歩いて入場するパフォーマンスも怪奇派ムードたっぷりで、ヒール人気を博し、12月1日、仙台・宮城県スポーツセンターにおけるセミファイナル、ロニー・メインと組んでの猪木&大木金太郎とのタッグマッチで、角材で大木の耳を削ぐという日本マット史上に残る戦慄の「大木金太郎耳そぎ事件」を起こしてます。(実際は大木が角材で殴られる直前に頭を動かしたことによるアクシデント)。試合は1本目は12分52秒、両チームリングアウト、2本目は2分7秒に猪木がアバラ折りでメインをギブアップさせて2−1で猪木&大木組の勝利。
12月3日、大阪府立体育会館では後半戦より特別参加したNWA世界ヘビー級王者ジン・キニスキーとのタッグで馬場&猪木組のBI砲のインターナショナル・タッグ王座に挑戦、1本目は19分31秒、馬場が外国人組に反則勝ち、2本目は8分13秒、馬場がバーナードを片エビ固めに決めて2−0のストレート勝ちで馬場&猪木組のBI砲が10度目の王座防衛に成功。NWA世界ヘビー級王者キニスキーが参戦してくるまではシリーズのエースだった訳です。
シリーズ最終戦の12月13日、後楽園ホールでメインと組んで馬場&猪木組のと対戦。1本目は17分3秒に日本組の反則勝ち、2本目、4分34秒、猪木がこの時試合では初使用となる新兵器卍固めでバーナードをギブアップさせ2−0でBI砲が勝利を収めました。バーナードは猪木の最初の「卍固めの犠牲者」として日本プロレスの歴史に名を残すことになりました。
帰国後、69年にオーストラリアでマーフィと再合体しトニー・パリシー(アントニオ・プグリシー)&ディック・マードック組、マードック&ラーズ・アンダーソン組、マリオ・ミラノ&スパイロス・アリオン組などのタッグチームを相手に豪州版IWA世界タッグ王座を争いました。
同年5月、日本プロレス「ゴールデン・シリーズ」にマーフィとのコンビでの再来日が実現、マーフィとバーナードが骸骨を加えている「ゴング」同年8月号の表紙は子供達はトラウマになりそうな恐ろしさでした。
2度に亘って馬場&猪木組のインターナショナル・タッグ王座に挑戦。5月31日、札幌中島スポーツセンターの初戦では1本目は7分15秒、日本組の反則勝ち、2本目は6分48秒、マーフィが猪木を体固め。決勝の3本目は2分25秒、猪木がバーナードを体固めに決めて2−1で馬場&猪木組のBI砲が3度目の王座防衛。(BI砲はこの年の1月にウィルバー・スナイダー&ダニー・ホッジ組に敗れて王座転落、2月に奪回)
6月25日の大阪府立体育館での再戦では、1本目は10分38秒、猪木がバーナードをアバラ折り、2本目は5分11秒、馬場がマーフィを体固めに決めてこの時は2−0のストレート勝ち馬場&猪木組のBI砲が4度目の王座防衛に成功しています。(次回に続く)
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