74年新日本プロレス「闘魂シリーズ第2弾」中盤戦には、「アラビアの怪人」ザ・シークが新日本初来襲の特別参加、来日第1戦となった11月8日、後楽園ホールではデトロイト時代の因縁のある坂口征二とシングルで対戦し4分49秒に反則負け。
猪木とは11月12日、沖縄県那覇市奥武山(おうのやま)体育館(現在の沖縄県立武道館、テレビ収録、観衆5,000人満員発表)で初対戦、12分58秒にシークの反則攻撃に怒った猪木が暴走し反則負け。翌11月13日、同じ奥武山体育館(観衆5,000人満員発表)では完全決着の意味合いを込めてランバージャック・デスマッチで対戦しましたが、猪木の猛攻に戦意喪失したシークがセコンド陣の包囲網を潜って控室に逃走、6分23秒、試合放棄となっています。
シークは翌日の11月14日沖縄市体育館大会(坂口と7分56秒、両者リングアウトの引き分け)まで試合に出場していますが、シークの留守を狙ってシークの興行地盤であるミシガン州デトロイトでキラー・ブルックス(11月7日まで全日本プロレスの「ジャイアント・シリーズ第2弾」に来日していた)、ルイス・マルチネスらがオポジション(反対勢力)のプロモーションを作り興行を開催。
これを聞いたシークは慌てて2週間の参加予定を1週間でキャンセルして途中帰国してしまいました。このシークの一方的な約束破りに新日本プロレスは激怒、シークを新日本のリングから永久追放(タイガー・ジェット・シンのプロレス内のストーリー的な永久追放とは意味が異なる)し、国際裁判にまで発展してしまいました。
シークはこれより3年後の77年全日本プロレス「世界オープン・タッグ選手権」に来日し全日本へ復帰(73年4月の「チャンピオン・カーニバル」終盤2大会に特別参加)、以後81年まで全日本プロレスにレギュラー参戦しています。
シークが帰国した後11月22日、北九州市小倉区三萩野体育館からはアンドレ・ザ・ジャイアントが特別参加しています。アンドレは3月15日、岡山武道館で猪木とシングルで初対戦し、20分19秒、マネージャーのフランク・バロアがリング下から猪木の足を掬って倒し、アンドレがジャイアント・プレスを決めて体固めで反則はあったものの勝っており、猪木のNWF世界ヘビー級王座に挑戦する資格はありましたが、最終戦でストロング小林の再挑戦が決まっており、シリーズ終了後、新日本プロレスが猪木の「第2の故郷」である「ブラジル遠征シリーズ」が行われることが決まっており、そこで岡山の再戦が実現濃厚となりました。
アンドレは2〜3月の「創立2周年記念ビッグ・ファイト・シリーズ」にビンス・マクマホン・シニアのブッキングで新日本プロレスに初参戦していますが、この間の6月に古巣国際プロレスのピンチを見兼ねて国際プロレスの「ビッグ・サマー・シリーズ」に特別参加しています。
アンドレは世界的スーパースターになるきっかけとなったAWA代表のバーン・ガニアと繋がる機会を作ってくれた吉原功社長に恩義を感じており、小林の離脱、TBSの放送打ち切り、大剛鉄之介の交通事故による右足首切断によるレスラー生活断念という「トリプルショック」の窮状を知り、(以前書いたように猪木vs小林戦が行われた3月19日、蔵前国技館に国際プロレス時代からリングを降りれば親友だったマイティ井上がアンドレの支度部屋を訪ねており、その時に話を聞かされたと思われる。全米の売れっ子だったアンドレのスケジュール調整を考えて逆算すると、新日本から帰ったら直ぐにビンス・シニアに報告しないと間に合わない)国際のリングに参戦。
稼ぎ頭アンドレの頼みにはビンス・シニアもノーは言えず、元々アンドレとの契約は「全世界各地どこに出てもいい」というものでした。
本連載では、馬場が3月26日に開幕した「チャレンジ・シリーズ」前半戦に全日本プロレス所属である大熊元司、高千穂明久、サムソン・クツワダの3人を帯同して特別参加したところまでは書いてありますが、アンドレ参戦の件も含め、74年の小林離脱後の国際プロレスについても触れておきたいと思います。
5月11日、新潟県五泉市民会館で開幕の「ダイナマイト・シリーズ」、5月26日、愛知県豊田市体育館では小林の離脱により空位になったIWA世界ヘビー級王座決定戦に出場する日本代表決定戦が、ラッシャー木村とグレート草津との間で行われ、途中試合に関係のないセーラー・ホワイトが乱入して両者を襲撃、流血させられてダメージの大きかった草津が22分55秒、逆エビ固めで木村にギブアップ負けし、木村が日本代表に。
6月3日、後楽園ホールでは木村とAWA代表のビル・ロビンソンが王座決定戦を行い、2−1でロビンソンが勝って第7代王者となりました。
この試合を東京12チャンネルが単発で生中継。東京12チャンネルには吉原社長の早稲田大学レスリング部の先輩にあたる白石剛達(たけみち)が運動部長でおり、東京12チャンネルは海外のプロレス映像を放送した「プロレスアワー」、小畑千代、佐倉輝美らの日本女子プロレス、また72年10月には、ノーテレビ時代の新日本プロレスの猪木vsカール・ゴッチの世界ヘビー級選手権試合(10月4日、蔵前国技館、10月10日、大阪府立体育会館)2連戦を単発放送した実績がありました。
続いて、アンドレが前半1週間特別参加した「ビック・サマー・シリーズ」(アンドレ参戦は6月25日、後楽園ホール〜7月1日、福岡九電記念体育館)ではアンドレが出場した後楽園ホール大会と、帰国後の7月5日、鹿児島県鹿屋市体育館の2大会を放送。「秋にはレギュラー放送決定か?」という国際プロレスにとっては嬉しいニュースがありました。アンドレは国際プロレスの東京12チャンネル放送開始の後押しをしました。
8月16日、コロラド州デンバーでロビンソンがスーパースター・ビリー・グラハムの挑戦を受けてIWA世界ヘビー級王座の防衛戦を行い、1−1からの3本目、グラハムのセコンドについたバロン・フォン・ラシクがステッキ状の凶器でロビンソンの足を掬って倒しグラハムが覆い被さってカウント3が入りベルトが移動。グラハムが第8代王者になっています。
しかしこの試合は71年6月19日、ミネソタ州ダルースで小林がビル・ミラーを破ってどう王座を獲得した試合と同様に実際には行われていないだろう、というのが事実のようです。
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